目 次


はじめに

1 アラスカの先住民

[1]シトカ海岸地区のトリンギット
 衣・食・住
 交易
 家系と財産相続
 トーテムポール
 ポトラッチ
 精神世界
[2]その他の先住民達
 北極地区のエスキモー
 内陸のアサバスカン
 海島のアリュート
[3]極東の仲間たち
 中国の赫哲族と鄂倫春族
 サハリンとアムールの人たち
 カムチャッカ半島
[4]破壊された先住民の生活
 ロシアの毛皮商
 :1784年〜1867年
 さらなる収奪
 :1867年〜1912年
 先住民たちの要求
 :1912年以降

2 東南アジアの森と港と焼畑

[1]東南アジアの輪郭
 大陸部と島嶼部
 歴史
[2]非日常の空間・森
 瘴癘の地
 森林物産採集
 呪術師マジェリ
[3]賑やかな港
 典型的海民のガフン氏
 ザイール氏とジョン
 密輸
 港の構造
 開放的な世界
[4]焼畑の民と稲魂
 焼畑の村
 焼畑稲作
 大陸部のこと

3 日本の風土

[1]日本の森
 雑多なカミガミのおられる里山
 私の奥山
 アイヌの奥山
 孤立峰
[2]平野の地縁型社会
 字社会
 稲作適地の盆地
 協力と対立
[3]平野の中にいるカミ
 氏神社
 最近までいた小さいカミガミ
[4]日本と海
 黒潮に洗われる沿岸
 日本の神話
 天孫降臨と異人王
 北の海

4 対岸の中華世界

[1]中国への旅ふたつ
 《中国》を求めての旅
 長江文明の検証
[2]中華世界の出現と定着
 中華世界とは
 中華世界の出現
 超生態・超民族の空間

5 森・海文明圏の提案

[1]アラスカの声
[2]何故、森と海なのか
[3]環太平洋森・海文化圏の構想

森の聖性と海の他形性:現代文明を越すもの

 高 谷 好 一


はじめに

 私は2006年夏、中国の黒龍江省とアラスカに旅行をしました。そこの森に住んでいる人達の家を見たかったからです。つい最近まで竪穴住居があったというが、どんなものだったのだろう。高床住居もあるというが、東南アジアのものと同じなのだろうか。そんなことが気になって見に行ったのです。しかし、結果は全く違ったことに深い感銘を受けて帰ってきました。
 最後に行ったアンカレジで、先住民達が〝土地を返せ!〟と訴えるのに出会って、そうだ!その通りだ。彼らの言う通りにしなければ、地球世界は潰れてしまう。そう考えるに至ったのです。あまりにも強烈な感銘を受け、何はともあれ、とにかくこのことは書かねばならない。と、そう思って書き出したのです。彼らは、〝土地を返せ〟といっています。しかし、お金のために言っているのではないのです。魂のために言っているのです。しかも、自分の魂のためではなく、全ての生き物のために言っているのです。そのことを紹介して、最後に私自身が今、思っている提案をしたいのです。
 このエッセーは4つの章と終章からなっています。第1章「アラスカの先住民」は、私がその夏に行った駆け足旅行の見聞録です。アラスカには大きく分けて東南海岸の森林帯に住むトリンギット達、北極地区に住むエスキモー達、内陸の森と湿地地帯に住むアサバスカン達、アリューシャン列島に住むアリュート達が居るのですが、主としてトリンギットのことを紹介します。私がここで大部分の時間を過ごしてしまったからです。
 トリンギットを始めとしてアラスカの先住民といわれる人達は本当に心豊かな生活を送ってきました。彼らは獣や魚や樹々にも魂を認め、それらと共生してきたのです。森と海のはざまに住み、常にカミガミの声を聞き、厳しい自然の中で雄々しく、しかし、つつましく生きてきました。彼らはこういう共生を1万年もの昔から続けてきたし、自分達の任務はそれをそのまま子や孫に伝えていくことだと考えています。しかし、その生活がこの百数十年の間にすっかり変えられてしまいました。欧米人が入ってきて、獣も魚も、すっかり取り尽くしてしまったからです。侵入者達は、最後は森林も大きく破壊してしまいました。おまけに、彼らは先住民から土地を取り上げてしまいました。先住民は動物のいなくなった居留地や町の片隅で生きていかざるを得なくなっています。そういうなかで、今彼らは〝土地を返せ〟と訴えているのです。
 第2章は「東南アジアの森と港と焼畑」としています。これはアラスカの旅で先住民の訴えに触発されて、そうだ、東南アジアをもう一度見直してみよう、ということで書いたものです。アラスカで先住民達が強調したことは「カミ」であり、「魂」でした。その目で見直してみると、東南アジアでも基底にあるものは同じでした。森にはカミガミが住んでいる。稲は魂をもっている。その稲を焼畑で作るには、カミガミと祖霊の加護に頼らなければならない。そんなことを、自分のかつての知人の証言をもとに書きました。
 東南アジアはまたもう一つの顕著な特性を持っています。彼らは海の民であり、港の住人です。港は、陸の町や村がもたない特別な性格をもっています。出自が異なり、生活習慣や考え方が違う雑多な人たちが混住しています。こんな所では人々はお互いに自分の我を捨て、ソフトに弾力的に住んでいます。港の人たちは文化的背景を異にする人たちの共生のノウハウを持っているのです。
 第3章は「日本の風土」と題しましたが、森、平野、海と分けて考えてみました。日本の森は南の森と北の森に分けられます。しかし共に異界であり、そこにカミガミが住んでいる点では同じです。平野には強固な地縁型の社会が生まれました。これは日本の特徴といってもよいでしょう。このことを私自身が住む近江盆地を中心に論じました。海は人々を移動させ、混合、共生させる場です。日本の海岸もその例外ではありません。
 第4章は「対岸の中華世界」とし、対岸にある中国を考えてみました。その結果、これは全く別のものだという結論に達しました。先の三つの地域には、いずれも広大な海があり、そこに森で覆われた島々が点在しています。そして、そこには森の暗がりを恐れる人たちが住んでいます。一方、港には一期一会的に人が集まっているというのが標準的な風景です。しかし、中国では全く違う。農耕地がずっと続き、そこには人がいっぱいいる。どちらを向いても集落と人。ここでは人々が恐れるのはまず人間です。それに集団が生き延びていくために、集団自体が厳格なルールを創りだしています。それは厳格だけれど、極めて巧妙に考え出されているので、構成メンバーはお互いにそれに誇りを抱きながら、それに縛られていく。そんなことが起こっているのです。ここでは中華思想を創出し、それで集団をまとめ、中華世界を作っているのです。前の三者が生態に強く依拠しているのに対して、ここ中華世界は大思想が縛る世界です。
 終章は「森・海文明圏の提案」です。こうして、アラスカ、東南アジア、日本、中華世界と並べてみると、先の三つは極めてよく似ているが、中華世界は全く異質だということがよく分かります。こういうことから、はじめの三つの地域をひとまとめにして、森・海世界というものを提案しています。そして、この世界は森・海文明とでもいうべき極めてユニークなものをもっていることを主張しているのです。この文明の特徴は森や生き物が持つ魂を認め、見えないものを見るということです。もうひとつは海のもつ他形性です。相手を認める弾力性といってもよいと思います。この二つが、現代文明の特性である、見えるものしか見ない浅はかさと、他者を認めない自形性を克服する可能性がある、と主張しているのです。そして、そのことを世界に向けて発信するために「森・海文明圏の設立」を提案しているのです。

第1章 アラスカの先住民


 星野道夫の写真集に感銘を受けて、アラスカを見に行きました。東南アラスカにトリンギットと呼ばれている人たちがいて、巨大なコミュニティハウスを持っていると聞いたので、それを見に行きました。(図1)
 トリンギットのコミュナルハウスや伝統的な生活というのは今ではもう博物館にでも行かなければ見られません。これは18世紀末、ロシアの毛革商が来てから崩れ始め、後にアメリカに吸収されてからはすっかり元の姿を消してしまいました。その変化の過程は次の節で述べるとして、とにかく、ここではそれ以前にあった先住民達の生活の様を紹介してみたいと思います。
 
図1 アラスカ、シトカ海岸地区の風景(嶋田奈穂子撮影)

[1]シトカ海岸地区のトリンギット


図2 アラスカの4地区
   アラスカは図2に示した様に、四つの地区、シトカ海岸地区、北極地区、アリュート地区、内陸地区に分けられます。
 シトカ海岸地区に住む最大の部族がトリンギットです。トリンギットが住む土地はトウヒ(針葉樹)でびっしりと覆われた島が無数に散らばる多島海です。多島海の東側はロッキー山脈になっていて、所によってはそこから氷河が海の近くまで伸びてきています。こんな所ですから、陸路で接近することは不可能です。私はカナダのプリンス・ルパートという港から船で行きました。東南アラスカのこの多島海にはアラスカ・マリンハイウェイという航路が通っていて、多島海を南北に縦断してアンカレジ行けるのです。
 多島海は瀬戸内海に似ているようにも見えますが、もっと島が多く、しかもその島がびっしりトウヒで覆われていて、集落はほとんどありません。黒味がかった水と黒い針葉樹の森ばかりの空間は、夕方などは人を怖気させるような雰囲気を漂わせます。
 森の中に入ってみると、べったりと苔が覆い、所々に水溜りがあります。小さな流れがあると、そんな所にだけは柳が生え、木イチゴやユスラウメがあります。他にはトウヒ以外、何もありません。こんな所でどうして生活するのだろう、というのが実感です。

〈衣・食・住〉
 トリンギット達はロシア人が来るまでは鉄器も、土器さえも持っていませんでした。しかし、この多島海の環境を見事に使いこなして、豊かな生活を送っていたのです。(図3)
 まず、衣です。綿布などはありません。だから獣皮を多用しました。アザラシやラッコなどの海獣と、トナカイや山羊などの内陸獣の皮です。それから樹皮布を多用しました。レッドシーダー(ヒマラヤスギの仲間)の内皮を利用したのです。内皮をはぎ取って、バーク・ビーターで叩いて引き伸ばし、柔らかくして布としたのです。
 
図3 トリンギットの冬の集落。1899年のCape Fox(Steve J. Langdon, 2002 The Native People of Alaska p.26 より)
糸にはトウヒの根を用いました。トウヒの細い根は長く伸びていて、しかも強靭なので、これを裂いて糸や紐にしたのです。
 食の中心はサケです。各種のサケが夏から秋にかけて川を上ります。このサケをヤナなどで取るのです。そして燻製にして冬用の食料にしました。サケの他にもオヒョウなど、いろいろの魚もとりましたし、アザラシやトドもとりました。鯨もとりました。女子供は磯で貝やウニを集めました。植物性の食糧はイチゴくらいしかないのですが、動物性食糧はずいぶん豊富にあったようです。
 家は驚くほどの立派なものを建てたようです。彼らの生活は冬の本村での生活と夏のキャンプ生活に分かれているのが普通だったようですが、冬の本村にはそれはそれは素晴らしい家を建てたようです。基本的には竪穴の家なのですが、それに巨大な上屋を架けるのです。生計を共にする数家族が1軒の家に住むのですが、時には100人くらいの人たちが住んだようです。こういう大型のものになると、幅は20メートル、長さは50メートルにも達したようです。(図4)
 こうした家が数軒から数十軒かたまって一つの集落を作るのですが、集落の外観は賑々しいものです。多くのトーテムポールが立てられるからです。結婚式があったといってはポールを立て、死んだといっては葬儀用のポールを立て、新しい家長が生まれたからといっては記念に立てるからです。一つの集落に十数本のトーテムポールが立つことは決して珍しくありません。それに建物の外壁、特に正面などは色付きの彫刻で賑々しく飾るのです。(図5)

 
図4 トリンギットのチーフの家。ランゲルのShake’s Islandに復元されたもの(嶋田奈穂子撮影)
 
図5 ケチカンのCreek Streat。トリンギット集住区のひとつで、20世紀はじめには赤線地区に指定された(嶋田奈穂子撮影)

 こうした集落がかつては河口部や湾の入口などに点在していました。そうしたものが全く見えなくなってしまったのは、この百数年の間の経済構造の変化のためです。トリンギット達は今は新来者たちが作った港町の片隅に、あまりぱっとしない居住区を作って住んでいます。

〈交易〉
 住居のことを漏れなく伝えるためには夏のキャンプのことも書いておかねばなりません。夏になると彼らは遠くまでサケ獲りや狩猟に出かけました。そんな時には簡単な小屋を作ったり、テントを張ったりしました。サケ獲りに行った人たちは決まって燻製小屋を作りました。また、船小屋も作りました。テントはたいてい十数本の木を円錐形に組み、それを樹皮や動物の革で覆ったものでした。
 こうして、彼らは多島海の森と海と川を巧みに利用して十分に自給可能な状態を保っていました。さらに彼らはもっと広範に動き、交易をやっていました。交易の基本は海の物産とロッキー山脈の物産との交換でした。時に、もっと東の大平原の物産との交換もしました。トリンギット達は、舟造りの名人でもある隣人のハイダから丸木舟を買い、それを上流の山地に運びました。山奥の人達も実際には川舟を多く用いたから、トリンギット達の持ってくる丸木舟を欲しがったのです。それにチルカットローブが貴重な交易品でした。これは、チルカットの人だけが織れる肩掛け風の布です。山羊とイエローシーダの樹皮で編んで作っていて、多くの人達が祭式用にと欲しがったものです。また、非常によく売れたのがエリュチャン油です。これはニシンぐらいの大きさの魚からとった油ですが、油脂の不足するロッキー山脈方面では大きな需要がありました。トリンギットはこういうものを上流に運んで、上流からは皮革や毛皮やペミカンや銅を持って下りました。ペミカンというのは乾かした獣の肉片を粉砕し、それにベリーなどを加えて、油をたらして搗き混ぜて作った保存食です。銅というのは自然銅です。ロッキー山脈のなかには銅を出す所があって、この銅がトリンギット社会では盾状の什器に加工され宝物とされたのです。

〈家系と財産相続〉
 トリンギット社会では家系がしっかりと守られていて、それを軸に名誉や財産をちゃんと相続していきました。トリンギットの人達は、誰もが生まれると同時にワシかワタリガラスのどちらかの集団に属することになります。そしてそれ以後は外婚制と母系制という決まりのなかで生きていかねばならないのです。
 外婚制では配偶者は必ず自分の集団とは違った集団から選ばねばなりません。例えば、ワタリガラス集団に属する男です。その男の妻はワシ集団出身の女性でなければならないということです。母系制というのは生まれた子供は母の集団に属するというルールです。だから、この夫婦の子供達は男女を問わず、母の集団であるワシに属することになります。集団への帰属は例外なくこの原則で行われていくのです。集団と家系はきっちりとした形で守られ、引き継がれていきます。
 次に財産ですが、これは男から男へ引き継がれていきます。しかし、それは母系制というクッションをおいて引き継がれていきます。こういうことです。ある男性が財産を持っているとします。しかし、これは財産を守る役目を引き受けさせられている、あるいはそれを運用する役割を与えられているというだけで、実際にそれを保有し、次代に相続する役割を担っているのは自分の姉か妹なのです。彼女はその財産を自分の娘に渡します。そして、息子の方はそれを守り、運用するだけです。この財産が3代目に移るときにはまた母系制の原則が働きます。娘の娘、すなわち孫娘が受け継ぎ、それを守り運用するのは兄弟ということになります。こうすることによって、財産は永遠に当初の集団に残すことが可能になるのです。ここでは簡単に財産といってしまいましたが、実際にはいろいろのものがこうして引き継がれていきます。漁場の権利、家紋、名誉などです。

〈トーテムポール〉
 家系やクランの伝統をもっとはっきりした形で表し、それを引き継いでいくのに力があるのはトーテムポールでしょう。トーテムポールには実在の動物や架空の動物、人間などが積み重ねられた形で次々に彫られています。動物は熊やビーバー、狼であったり、鷲やワタリガラス、鯨やシャチ、蛙、架空の鳥であったりします。この積み重ねがちゃんと一つのストーリーをなしています。だから、1本ずつのトーテムポールは皆、それぞれの物語を語っているのです。
 トーテムポールには普通、3種類あるといわれています。葬儀に関わるもの、借金などに関わるもの、それからモニュメンタルポールといわれるものの3種です。葬儀に関わるものはその頂部に棺をのせたり、じかにポールの本体に穴をえぐって、そこに遺品を入れたりするものです。借金に関わるものというのは、お前はこういう負債があるではないか、早く支払え、といった要求を人目にさらすために建てたものです。このポールは借金が支払われると取り壊されるといいます。最も多いのがモニュメンタルポールです。これは何か記念すべき出来事があった時に立てるものです。例えば、チーフの交代があったとか、家を建て替えたとか、戦争に勝ったとか、そんな出来事のあった時に、それを記念して立てるのです。
 トーテムポールの彫刻は、下から読み上げていくのですが、他国者には普通は読みきれません。何せ、動物などが重なっているだけだからです。しかし、一度説明してもらうと、大変面白いものです、もう忘れません。例えば、ランゲルにあるシェイクというチーフの家の前にある「2頭の鯨のトーテム」というのは、こんな物語が語られているのです(図6)。

〝一人の若者が隣のクランの娘と結婚した。娘の母親は〝婿は怠け者だ〟と言っていつも責めた。ランゲルの近くには魔物が出る湖があった。ある日、若者は罠をかけて魔物を捕らえた。皮を剥いで、その皮をかぶってみると、不思議なことにその皮は生き返ったように泳ぎだし、若者を池の底に連れて行った。若者が皮をかぶるたびにそんなことが起こった。その翌年、ひどい飢饉が起こった。どうにもならなくなった時、若者は例の皮をかぶって海に潜り、サケを1匹捕まえてきて、砂浜においておいた。すると義母がそれを見つけて村に持ち帰った。翌日も若者はまた海に潜り、もっと多くのサケを持ち帰り浜においた。また義母がそれを見つけて持ち帰った。そんなことが何日も続いた。義母は、自分は力があるからこうしてサケを取ってきて村人を助けられるのだと自慢した。村人達は信じた。若者は妻にだけは本当のことを話して、誰にもこのことは言ってはならないといった。
そのうち、飢饉はもっとひどくなった。義母はますます多くのサケを持ち帰るようになった。ある日、夫が帰らなくなったのに気づいた妻は、浜に行ってみた。すると、皮をかぶった夫が2頭の鯨を背にして死んでいた。もっと多くの食料が必要になったことを知った夫は、大きい鯨2頭を持ち帰ったが、砂浜でついに力尽きて死んだのである。悲しんだ妻は夫の体から皮を剥がすと、それを湖のほとりに持ち帰った。すると皮は生き返り、妻を連れて湖の底に潜っていった。〟
 
図6 ランゲル郊外にあるトリンギットの家。時に、こうした家は小さいトーテムポールを立てている。(嶋田奈穂子撮影)

 2頭の鯨を頭の上においた男が一番上に彫られていて、いろいろの動物や人間が刻んであるこのトーテムポールは、こういう物語を語っているのです。シェイクのクランの若者の悲しくも美しい人生を顕彰してのトーテムなのです。
 家やクランの歴史はこういう形でトーテムポールに刻まれ、村に立てられます。冬にクランの人々の全てが村に帰ってきてコミュナルハウスに集まったとき、長老達は囲炉裏を囲んでこんな話を繰り返し、子供達に語ったといいます。トリンギットの歴史はこういう形で語り継がれていったとのことです。

〈ポトラッチ〉
 枠組みのしっかりしたこのトリンギット社会により一層の活力を与えているものに、ポトラッチの伝統があります。これは饗宴と訳してもよいかもしれません。個人でやることもありますが、クラン(氏族)単位でやることが多いようです。クランというのは、先のワシ集団の中にもワタリガラス集団のなかにもいくつかあります。シャチクランだとかビーバークランなどと、固有の名前を持ち、自分達だけの紋章をもった親族集団です。たいていは傑出した一人の人物などを始祖とする血族集団で、自分達のチーフを頂いています。このクラン単位で結婚式だ、葬式だ、チーフの交代式だ、といって饗宴合戦を行うのです。
 ポトラッチの最も典型的なものは葬儀にかかわるもののようです。クランの中で誰か重要な人が死んだとします。すると普通はそのクランの人はあまりいろいろのことを自分達ではやりません。例えば、死体を焼く作業などは他のクランの人に頼みます。あまりに親しい人の死骸に直接かかわるのは恐ろしいからだそうです。
 こうして葬儀を終えるのですが、その後でお世話になったお礼ということでポトラッチをやるのです。直接助けてくれたクランの人たちはもちろんのこと、近在のチーフや主だった人達を招いて何日間も続く宴会をやり、歌や踊りをやるのです。この時、チーフはお礼の言葉を述べるのは当然ですが、それに加えて自分達のクランの来歴を述べ、自分達の先祖の中にはどんな立派な人達がいたかということなどを、とうとうと述べるのです。そして、最後に布などの高価な贈り物をします。しばしば、最後にはクランで一番大事な宝物である銅の盾を打ち砕いて、これを参会者に配るようです。ポトラッチを終える最後の言葉は、〝これで自分達の財宝を全てはたいて皆様をもてなしました。しかし、ご心配下さるな。私達は無一文になったが、明日からはまた大繁栄へ向けて頑張っていきます〟といったふうなものだそうです。
 この種の饗宴合戦が繰り返されるのです。こういうなかで太っ腹のチーフはトリンギット社会で名声を博し、そのクランはますます強くなっていく、ということのようです。
 ポトラッチの記録を見て、トリンギット社会の活力を見せつけられた感じでした。

〈精神世界〉
 ポトラッチもすごいのですが、私がもっとすごいと思うのは、彼らの精神世界の奥深さです。彼らは人間だけは特別な存在で、獣や魚などは人間よりずっと下等で、無縁の存在だ、などとは決して考えていません。みな魂を持っていて、怒れば祟るし、喜べば助けてくれる。皆、仲間のようなものだ、と本気で考えているようです。
 博物館に棍棒が置いてありましたが、それにはこんな説明がありました。これはオヒョウ漁をする人が持って行くものだが、釣り上げるとただちにこれで頭を叩いて殺す。その時、〝苦しまないであの世へ行ってくれよ、そしてまた帰ってきてくれ〟というのだと書いてありました。人間や動物、植物のことをトリンギットの人達は次のように考えているようです。
 「すべてのものは—植物も動物も人間も—みな魂を持っている。そしてすべてのものは—自然のものも超自然のものも含めて—ちょうど人間と同じように社会生活を送っている。ということは、例えば君自身もサーモンの世界に入れるということだ。海の下のサーモンのロングハウスでサーモンのチーフに出会えるということだ。また、ワシの世界にも入れる。部族を統轄しているワシのチーフに、空にあるワシのロングハウスで出会えるということだ。シャーマンはこれらの世界と人間界をつなぐことができる。人間は正しい案内さえあれば誰でもそうした世界と人間界を行き来することができる。」(David Hancock 2003 Tlingit :Their Art and Culture , The Indians of Alaska , Yukon & B.C. p44)
 星野道夫は次のような文章を書いています。少し長くなりますが、原文のまま引用いたします。ここには動物と人間の関係、魂、トーテムなどに対する考えが極めて密度高く表現されています。

 クリンギットインディアンの神話に、クマと結婚した人間の娘の話があった。
 ある秋の日、木イチゴを摘みに森の中へ入った娘が、クマの糞を踏んで、滑って転んでしまう。娘はあらゆる限りの悪態をつくのだが、ちょうど近くにいた森のクマがその言葉を聞いていた。怒ったクマは、娘を連れ去り、森の奥のクマの村へ運んでゆく。
 クマの世界で生きてゆかねばならなかった娘は、次第に、あれほど自分と違って見えたクマの姿に親しみを抱き始め、やがてある若者のクマと結婚する。そして2頭の仔グマを産み、幸福な暮らしを営むうちに、かつて人間の娘がこの村に連れて来られた悲しい話も忘れ去られていった。
 が、ある日、聞き覚えのある犬の吠え声が近づいてきて、この幸福な家族に終わりが来る。それは娘の兄さんの犬で、行方不明になった妹を捜しに、村人たちと共に森の奥までやって来たのだ。
 クマの村では集会が開かれ、人間との争いを避けるために、この家族を村から出さなければならないことを決める。一家は村人たちに追われながら、山の岩穴に逃げ込んだ。もう助からないと知ったクマの夫は、その晩、妻に告げる。
〝私はもうすぐ死ぬだろう。おまえは人間の村に戻って、二つの世界をつなぐために、クマのクラン(家系)をつくるのだ〟
 そして朝になり、夫は村人たちが待つ岩穴の外へ出ていって、〈死者の歌〉を歌いながら殺されていった。娘は人間の村に戻ったが、子どもたちは生まれ育った村が忘れられず、クマの世界へと帰っていった。やがて娘は再び結婚をして、人間の子どもを産み、その子孫がクマの家系になっていったという。
 南東アラスカのインディアン、クリンギット族、ハイダ族は今も複雑な社会構成をもっている。ワタリガラスとハクトウワシのそれぞれの家系がさらに枝分かれした動物たちのクランで成り立っているのだ。そしてクマは、ワタリガラスの家系に属する最も強い家系である。ポトラッチの儀式で彼らが歌う歌、それは人間の妻のために死んでいったクマの、あの〈死者の歌〉だという。
 クリンギットインディアンの人々は、森の入口でシカや木イチゴなどの自然の恵みを得てきたが、その境界を越えて、森の奥深くへ入ってゆこうとはしない。アドミラリティ島でも、アングーン村の人々は、そうやって太古の昔からクマと共に生き続けてきた。(星野、1996『森と氷河と鯨』世界文化社 127〜129頁)

[2]その他の先住民たち

〈北極地区のエスキモー〉
 北極地区はツンドラが広い面積を占めます。背丈が1〜2メートルしかない樺や柳が所々に生える以外は苔が覆っているような地帯です。夏にはそこにトナカイの大群がやってきますが、冬には雪と氷で覆われます。海も、冬には厚い氷が張りつめてしまいます。この北極圏はカナダの北縁に広がるのですが、その西端がアラスカ北部にも続いていきます。
 ここにエスキモー達が住んでいます。近頃はエスキモーと呼ばないでイヌイットと呼ぶことの方が多いようです。アラスカではイヌイットはさらに二つのグループに分けられています。ベーリング海沿いのユピックと北極海沿いのイヌピアトとです。前者は海のエスキモー、後者は北のエスキモーとも呼ばれています。  いろいろのバリエーションがあるのですが、ユピックの家の基本的なものは半地下式のものです。約1メートルの深さに地面を掘りくぼめ、それに厚板で屋根を組み立てます。入口にはトンネル状のものを作ります。こうしたうえで、その屋根には厚く土を置きます。これは女・子供のための冬の家です。男用には同じ形式ですがもっと大きなものを建て、これをコミュナルハウスにします。男は皆、このコミュナルハウスに住み、女達が各家庭で作った料理を男達のもとに運びます。家には、男の家にも女の家にも炉はありません。薪がないからです。それで、皿に入れたアザラシの油を燃やして暖をとります。衣服はアザラシやトナカイの皮で作ります。時には魚や鳥の皮で作ります。
 春になって氷が割れだすと、カヤックで漕ぎ出してアザラシやセイウチを捕ります。カヤックは流木をうまく組み合わせて骨組みを作り、それにトドの皮を張って作ります。皮舟です。1人乗りが普通です。漕ぎ手が乗ると皮がぴっちりと胴のまわりを押さえて水が入らないようにしています。漕ぎ手はフードの付いたパーカーを着ます。これはアザラシの内臓を縫い合わせて作ったヤッケ風のもので、防水効果の非常に高いものです。裾を大きくしておいて、カヤックの入口を覆うようにしています。こうして防水には厳重に気を配ったものです。ベーリング海から北極海にかけてはこれが主要な舟で、春になるとこれで海獣の狩に出ます。この時期にはトナカイの群れが森林に向かって移動していきます。だから、それを待ち伏せして捕ります。春から夏、秋にかけてはこうして狩猟をし、冬がすっかり本格的になると、皆が冬の家に集まって祭を盛大に行います。
 イヌピアックの地でも生活の基本はユピックと同じようなものです。ただ、気候条件が一層厳しいために、家の造りが少し変わってきます。例えば、図7のようなものが現れます。前室を作っておいて、そこで外の冷たい空気を遮断し、それでも侵入してくる冷たい空気は床下におし込んでおくというような工夫をします。この図でいうと、人々は右側から前室に梯子で下ります。居間へはトンネルで入ります。居間は床敷きになっていて、トンネルを伝わって入り込んだ冷気は床下に押し込まれます。床の上が居間で、さらに一段高く寝台が作られています。もちろん炉はありませんし、皿の上でアザラシの油を燃やして暖をとるのです。天井の小さい穴は煙抜きであり、同時に太陽光の取り入れ口です。寒い前室は食糧などの保存室として使われます。氷ばかりで作られるイグルーはこの地区のもう一つの住居形態です。


図7 北エスキモーの家。1879年頃、Cape Nomeにあったもの(Steve J. Langdon 2002, p71 より)

 エスキモーは海ではアザラシやセイウチを、川ではサケを、内陸ではトナカイを、というように場所と季節に応じて獲物を変えて追っていくのが基本です。ただ、もう一つ大変重要なのが捕鯨です。春になると鯨はベーリング海から北極海へ移動していくので、それを捕らえるのです。春とはいえ、まだ凍てつくような寒い海に6人乗りくらいの船で出かけるのです。彼らはトナカイの毛皮の服ひとつで、氷の上で生肉を食って何日も待ちます。鯨が呼吸のために海面から顔を出したのを見つけると、それを追跡します。この頃はリードと呼ぶ細長い水面が氷の上に現れ、鯨はそこに顔を出すのです。小型の鯨には銛を打ち込んで捕ったのですが、20メートルもあるザトウクジラは槍で捕りました。頁岩製の槍先にはトリカブトの毒を塗っておき、それを鯨に撃ち込みました。数日すると鯨は死に、氷の岸に寄るといいます。それを村人総出で岸に引き上げたというのです。鯨だけで生きるエスキモーはいなかったようですが、鯨は大変重要だったようです。何せ大きな獲物ですから、1匹とれると村は大変潤ったといいます。
 エスキモーたちの精神世界には大変豊かなものがあるといわれています。彼らはユアというものを信じています。霊です。あらゆる生物は霊をもっていると信じているのです。そして、その霊をないがしろにすると碌なことがないと信じています。だから霊に好かれるように、いろいろの儀礼を行うのです。ユピックの場合だと、例えば、膀胱祭りというのがありますが、次のようなものだそうです。
 彼らは捕れたアザラシの膀胱は全部、小屋に吊るして残しておきます。そして冬になると「膀胱祭」をするのです。祭りになると、その膀胱を全部膨らませて、村の「男の家」、すなわちコミュナルハウスに集めます。そして行列を作って近くの川へ行き、氷に穴を開けて、そこから海に返します。祭りの趣旨はこういうことです。アザラシの魂は、もし膀胱が海の中のアザラシの家に返されておれば、そこに戻ってきてまた生き返る。だからその次の年の豊漁を願って大事に送り返す、ということです。祭りをやっている時、全てのアザラシの魂は「男の家」のまわりに集まって、作業が丁寧に行われているかどうか見ているのだといいます。だから、人は大声を出したりしてアザラシを驚かしたりしないように、静かに、慎重に作業を進めます。そして川に行列します。一方、村のシャーマンは膀胱が氷の下の川に流されると、それに付いて海のアザラシの家まで行きます。膀胱が無事到着してアザラシたちが満足しているのを見とどけると、村に帰ってきて、人々にそのことを報告します。これで祭りは完結する、というものです。(Steve J.hangdon , 2002 The Native People of Alaska , Greatland Graphics , Anchorage , p60-61)
 イヌピアットの場合も似たような考え方は常に持たれていたといいます。獲物を正しく殺しさえすれば、その魂は必ず別の個体に入って生き続けて、この世に戻ってくるというのです。だから、捕獲の直後に彼らは一つの作法として、獲物の喉を切ったり、頭に孔をあけたりします。そこから魂が抜け出て行きやすいようにするためです。また、敬意をこめて死に水を与えたりもします。真水を用意しておいて、殺した直後にそれをたらすのです。(前掲書、77頁)

〈内陸地区のアサバスカン〉
 ロッキー山脈と海岸山脈の最北端にあたる所がアサバスカンの居住地です。平坦な北極地区と違って、山あり谷あり、湿地ありという所です。そこに、ボレアルフォレストが広がっています。針葉樹が多いのですが、その間に湖や湿地が多く点在し、その周りには柳やハンノキが生えています。多様なものが入り混じっているという点ではトリンギットがいた海岸部の針葉樹の純林帯とは違います。
 このボレアルフォレストには多様な生態が混在しているために、一見住みやすい環境のように見えるのですが、実際にはそうではありません。エスキモーの土地のように、豊かな海獣がいないからです。アサバスカンたちは必ずしも安定した食糧源を持たないのです。だから、季節ごとに食糧を求めて歩き回り、どちらかというと移動中心の生活を送っています。
 春はトナカイを狩ります。渡り鳥も多く捕るようです。夏は漁業が中心になります。サケやシロマスが中心です。もっとも、サケは海岸部のように大量にはとれません。秋はクマやムースやトナカイを追います。冬も動物を狩るのですが、この時は罠を仕掛けてテンなどの小動物を多く捕るようです。
 アサバスカンも、トリンギットやエスキモーと同じように、基本的には冬は半地下式の家を作りますが、彼らのように厚板を使ったいかにも定着的なものは造らないようです。同じ半地下式でも、若木でドーム状の骨組みを作って、それにトナカイの皮を張り付けたようなものが多いようです。時にはトナカイの皮の代わりに白樺の樹皮を張りました。もっと簡単なものはティピです。これは十本ほどの木を頂部で縛って円錐形になるように建て、その外側をトナカイの皮や白樺の樹皮で覆ったものです。こうしたものだと移動は可能です。移動するときにはトボガン橇にのせて引いて行きます。橇といってもこれには底面の滑り面がなく、ただ2本の棒をV字状に組み合わせただけのものです。これを女や犬が引いていきます。犬ぞりはありませんから、能率の悪い運搬方法です。川のあるところでは舟が用いられました。これは白樺の皮張りの舟が多かったようです。若木で骨組みを作り、それに白樺の皮を張ります。白樺の皮をトウヒの根から作った紐で縫い合わせ、その縫い目には樹脂を塗って防水しました。
 精神世界ですが、生き物が魂をもっていて、それが輪廻していくという考え方はここでも同じです。アサバスカンはこう言います。昔は人間と動物は直接言葉を交わし、助け合っていた。しかし、ワタリガラスが現れてからは、この関係に変化が起こった。しかし、今でもいくつかの動物、例えばトナカイ、クマ、狼などとはこの関係が続いている。だからこれらの動物には敬意を払って付き合わねばならない。一部の人達は性的なタブーなどを守ってそうした動物たちとも礼儀正しいつきあいをしているから、動物の助けが得られ、普通の人間では持ち得ない力をもっているのだ、などといいます。
 一部のアサバスカンは願掛けや瞑想なども行うようです。例えば、サンダンスがそれです(図8)。戦勝を願って勝たせてもらったら、サンダンスをします、などという願をかけます。このダンスは大変なものなのです。胸に針を通して、その針から伸ばした縄で自分の体重を支えて踊る。
中央に立てた棒に、その縄のもう一方の端を縛りつけ、メリーゴーランドのように柱を中心にまわるのです。こんなのを3、4日も続けてやるといいます。また、スチームハウスというのがあります。小屋の中を湯気でいっぱいにし、その中で瞑想するのです。小屋の外では別の人が太鼓を叩いて瞑想を助ける。これの趣旨は体と心を清めるためだそうです。アサバスカンたちは修験道にも似た行をおこなうようなのです。
 
図8 アサバスカンのサンダンス、1887年頃。(Alan D. Mc Millan & Eldon Yellowhorn , 2004 First Peoples in Canada , p154 より

〈海島のアリュート〉
 アリュート地区にはアリュートが住んでいます。アリュートというのはロシア人が付けた名前で、自称はスグピアクとかウナンガンというようです。エスキモーと同じ系列の人達なのですが、アラスカのエスキモーではなく、シベリアのエスキモーに近い文化を持っているといわれています。
 この海島は木のない草だけの所だから、トリンギットのような巨大な厚板の家は建てられません(図9)。
 
図9 アリューシャン列島 Unalaska島の風景。1825年頃 Louis Choris描く(Steve J.Langdon , 2002 p17 より)
1メートルぐらい掘り下げた竪穴の上に流木と鯨の骨で屋根の骨組みを造り、その上に草や芝土を置いています。出入り口は天井に開けられた小さな穴です。古くなった家は芝土が草で覆われますから、周辺の地面とは全く区別がつきません。小さな塚がある、といった感じです。炉はありません。皿の上でアザラシの油を燃やして暖をとります。炉はなかったけれど、肉は生食したから、それで大丈夫だったといいます。大きな家でも、やはり炉はありません。中央が共同スペースになっていて、各家族は壁際に簡単な仕切りをして住んでいます。天井には小さな神像を吊るしていて、家を出るときには必ずそれに祈りを捧げてから出たといいます。こんな家がカヤックのつけやすい海岸に5、6軒の塊を作ってあったようです。
 木のない海島なのですが、温暖な気候もあって比較的住みやすかったようです。何よりも海獣など、食糧にするものが多かったといいます。女や子供達は引き潮のときに貝を拾ったといいます。老人や少年達はカヤックで静かな内海に出、オヒョウやタラを捕りました。壮年の男子は広い海に漕ぎ出してアザラシやラッコ、トドや鯨を捕りました。島が大きいとサケも捕れたといいます。
 衣服は海獣の皮で作りました。漁に出るときに着るパーカーはエスキモーと同じように、アザラシの内臓で作りました。腸や胃を干して、それを草の繊維から作った糸で縫い合わせて作ったのです。この糸は水を吸うと膨張して、非常に水密性の高いパーカーが出来たといいます。
 アリュート地区の生活は、ここにロシア人たちが到来するまではまるで楽園のようなものであったようです。彼らが持っている、それはそれは見事な編み物を見ていると、そんな空想をさせられるのです。一見イグサのように見える細い草をきっちりと編み上げて、各種の容器や靴などを作っているのです。時に鳥の羽や動物の毛、鯨のひげが編みこまれています。また、染色した草が使われています。トリンギットの木器類も見事なものですが、アリュートの草の編み物も大変なものです。時間的にも精神的にもゆとりがないと、こうしたものはできないのではないでしょうか。
 アリュートの精神世界もエスキモーと同じようなものです。海獣や魚の魂の再生を願って、丁重に獲物を取り扱ったようです。また、鯨とラッコのような特別な海獣が自分達に力を与えてくれると考えていたようです。彼らは冬には春の豊漁を祈って村をあげてのお祭りをしました。仮面を被って踊り、歌い、豊漁を祈り、そして同時にポトラッチ風の饗宴を行い、社会的靭帯を強めたようです。

[3]極東の仲間達

 現在アラスカに居る人達はアジアからベーリング海を渡ってアメリカ大陸にやって来たモンゴロイドだといわれています。多くの渡来者たちはそこからさらに移動していって、北アメリカの大平原、さらには南アメリカへと広がって行ったのですが、一部がアラスカに留まったのです。最初の渡来は1万年以上の昔にさかのぼるようです。その頃、ベーリング海には陸橋があったといわれています。この頃は槍を携えた人達が多かったようです。しかし、紀元前3000年紀になると、弓矢を持った人たちが現れ、この人たちが人数を増やし、占拠範囲を広げて今日のアラスカの人たちの基本を作ったといわれています。
 アラスカの原住民の故地を見てみたいと思って、実は私はアジアの東北部の様子を調べてみました。その結果を以下に簡単に記してみます。

〈中国の赫哲族と鄂倫春族〉
 私はアラスカに行く前に中国の黒龍江省も駆け足の旅をしました。北京からバスで北上したのですが、ハルピンを過ぎ、黒竜江の流域に入ると景色がはっきりと変るのに気付きました。それまでは黄土台地の上に広がる畑作中国の大地といった感じだったのですが、このあたりからは針葉樹が目立ち始め、白樺なども混じりました。ボレアル型の森林区に入ったわけです。この地区には、いわゆるツングース系の人たちがつい最近まで昔風の狩猟・採集の生活をしていたというのです。その代表が赫哲(ホジェン)族と鄂倫春(オロチョン)族です。
 赫哲族は黒竜江本流域の他に松花江、ウスリー江ぞいにも住んでいます。捕魚と狩猟を中心に暮していたといいます。樹皮を張った舟を用い、ヤスや樹皮製の網を用いて魚を捕っていたといいます。冬は短いスキーをはいて、狩に出たようです。博物館には魚皮で作った服と靴が展示してありました。また、樺の樹皮で作った帽子と曲げ物の箱もありました。この白樺樹皮の多用や曲げ物は後にトリンギット地区で見ることになったものと極めてよく似たものでした。住居はログハウスでした。それと別に、一種の高床建物である「魚楼」があります。これは魚などを乾燥させる建物です。これもアサバスカンやエスキモーの地区で見たものと酷似していました。
 鄂倫春族は黒竜江沿いと大・小興安嶺に居るといいます。馬とトナカイを用いて狩猟をしている、とありました。衣服には毛皮を多用し、日用の道具には、バケツなども含めて、樺皮を多く用いる、とありました。展示してあった家は「撮羅子」としてありました。これはアサバスカンのティピと全く同じ構造のものでした。外側の覆いは厚い白樺の樹皮でしたが、獣皮を用いることもあるとも書いてありました(図10)。
 
図10 撮羅子。北京の民族園に展示(嶋田奈穂子撮影)
 張嘉賓・盧貴子編著『黒竜江流域的通古斯人』(2004、哈尓濱出版社)にはこんなことが書いてあります。
 古文書に現れる粛慎人や靺鞨人、女眞人というのは皆ツングースの先民だ(頁2)。ツングースが新石器時代晩期と紀元後の早い時期に東方に移動して今のツングースになった。黒竜江上流にいる埃文基人はトナカイ飼育を中心にしているが、これは古代文献では「使鹿部」と表記されている。少し下流に鄂倫春人がいるが、これは狩猟を中心にし、漁業や採集もする。彼らは森に住んでいて、「林中人」または「樹中人」と呼ばれていた。黒竜江の中・下流域から松花江中・下流、烏蘇里(ウスリー)江には赫哲人など数種のグループがいるが、漁猟並重である。魚は自分達の食料にし、狩猟でとったものは交易にまわす。魚を多く捕る連中はそれで犬を飼う。犬は役畜であると同時に食料でもある。この人たちは「使犬部」と呼ばれる。また「魚皮部」とある(頁9)。19世紀末から20世紀初めだと、赫哲の男子成人は必ず舟1艘と滑雪板を持っていた。『晋書・四夷伝』によると、赫哲人は「夏則巣居、冬則穴処」とある。1960年に入っても、この人たちは「塔克吐」を作っていた。これは「魚梯子」ともいう。魚などを干す高床の家だ。これに住むこともある。ツングースの人たちは、獲物は山の神や水の神からの贈り物と考えている。だから、漁労や狩猟の前には儀式を行う。また、乱獲は神の怒りをかうものとして絶対にやらない(頁8)。この人たちの間では、薩満(シャーマニズム)は極めて重要である。(頁14〜15)。
 右の記載でも分かるように、中国の黒竜江沿いに住むツングース系の人たちの生活は、アラスカの人たちのそれに相通ずるものが大変多いのです。

〈サハリンとアムールの人たち〉
 最近、菊池俊彦編『サハリン北方先住民族文献集、人類学・民族学編、1905−45』(北海道大学大学院文学研究科、2006)が出ました。今では手に入りにくい文献を復刻したものです。その中のひとつ、葛西猛千代「樺太土人研究資料」には明治の末年のギリヤークとオロチョンについて次のように書いています。彼らは4月、5月には海岸に移動し、氷塊の上にいる海豹(アザラシ)をとる。7月、8月には幌内川の河口で鱒、つづいて鮭をとり、冬の食糧用に乾燥する。9月、10月には鱒、鮭が抱卵のために上流に登るので、それについて移動する。このときには森で貂の狩猟をする。11月になると貂猟をやめて下の町に下り、狩物を売る。12月から3月までの冬期は山に留まってトナカイ飼養と狩猟をする人と、河口付近の氷下の小魚と海豹を捕る2派に分かれる。
右の本の中でギリヤークと呼ばれているのは最近ではニヴフと呼ばれている人たちのことです。
 同書に収められた鷹部屋福平の「北方圏の家」にはサハリンにあった建物の挿絵がいくつも載せられています。例えばギリヤークだと、夏の高床の家と、冬の半地下式の家が示されています。他にカイラフという小屋があります。これはアラスカのティピに似ています。家の造りもアラスカの先住民のものに酷似しているのです。

〈カムチャッカ半島〉
 17世紀にロシアの勢力が拡大してくるまでは、カムチャッカ半島にはイテリメン、エベン、コリヤーク、アリウト、チクチなど、多くの小集団がいたようです。イテリメン人はこの中では最も古くからここにいた人たちといわれています。もともとは川沿いに冬用の半地下式の家を造り、夏はテントや小屋掛けで移動し、漁労と狩猟を中心として生活をしていたようです。
 エベン人はカムチャッカ半島だけでなく、シベリア北東部に広く分布する人たちで、内陸では狩猟を中心とした移動生活をしていたようです。それがオホーツク海沿岸にくると漁撈と海獣狩猟を中心とするようになり、定着生活をするようになったといいます。
 コリヤークもまたカムチャッカ半島から北東シベリアに分布していて、内陸の人たちと海岸の人たちでは生活の仕方が違っていたようです。内陸の人たちはトナカイ牧畜を主とし、移動的です。海岸の人たちは漁撈、海獣猟を中心とし、定着的です。夏は川でサケをとって干しザケを作り、冬は皮舟でアザラシや鯨をとったようです。冬の家は半地下式だったといいます。このコリヤーク人のもつ漁撈、海獣狩猟がベーリング海峡などに広がっていき、海洋文化の基本となったのではないかといわれています。
 チュクチ人も大陸に多く住んでいます。その分布の中心はベーリング海に面したチュコート自治管区ですから、シベリア最北東端の人たちといってもよいでしょう。この人たちは文化的にも社会経済的にもコリヤーク人に極めて近縁な人たちだといわれています。やはり内陸のトナカイ遊牧と海岸の漁撈、海獣狩猟に分かれています。内陸のトナカイ遊牧というのは、ツンドラでのトナカイ遊牧です。
 アリウトというのは先にアラスカで見たアリューシャン列島のアリュートと同系統の人たちです。以上は平凡社の『大百科事典』にある情報です。
 こうして並べてみると、極東アジアの森林帯に住む人たちにははっきりとした特徴があるのがわかります。内陸にある人たちは狩猟とトナカイ飼育をし、移動的な生活を送ります。一方、海岸に来た人たちは漁撈と海獣狩りが中心で、定着的です。後者は普通、冬用の半地下式の家を持っています。この生活の特徴に加えて、おしなべて強烈なアニミズムの信奉者です。動物にも魂があると信じ、その動物の力を借りようとします。また、山の神、水の神を信じ、獲物はそうした神々からの贈り物だと考え、儀礼を欠かしません。こうしたことはアラスカの先住民にそのままそっくりの形で認められるところです。

[4] 破壊された先住民の生活

 先に見たアラスカの先住民たちの風土は、彼らの生活も含めてこの200年足らずの間に徹底的に破壊されてしまいました。そのプロセスを簡単に見てみましょう。

〈ロシアの毛皮商:1784〜1867〉
 千島列島の毛皮獣をとり尽くしたロシア人たちは1770年代にはアリューシャン列島にやって来ていました。アリュートたちは少人数でしたから武器をもったロシア人に、いとも簡単に奴隷同様の状態にさせられました。女達を人質に取ったロシア人達は男達を使役して、ラッコやアザラシを捕らせたのです。こうしてアリューシャン列島を東進したロシア人たちは、1784年にはコディアック島に至り、ここに拠点を作りました。そして、さらに東に猟場を広げていったのです。
 1799年にはトリンギットの領域に入ってきました。突然現れた侵入者に対してトリンギットたちは6日間の精一杯の抵抗をしました。しかし、100隻のアリュートの小船を引き連れた4隻のロシア商人の軍艦には太刀打ちできませんでした。700人のトリンギットは要塞を放棄しました。こうして、ロシア商人はその近くに、現在のシトカに成長する町を造ったのです。
 ロシアの毛皮商人たちの事業は、大変儲けの多いものでした。彼らは先住民たちを使役して集めた毛皮を広東とウラジオストクに運んだのです。トリンギットの反抗は続くのですが、ロシア人たちはシトカに要塞を作ると、1804年にはそれをロシア領の首府ということにし、町の整備を始めました。そのうち、トリンギットの反抗も下火になり、城塞内には教会、病院、学校等々もできるようになったといいます。1830年代のシトカの人口が知られています。それによると城塞内の人口は1000人。その3分の1がロシア人、3分の1が連れて来られたアリュート人、残りの3分の1がロシア人とアリュート人の混血でした。そして城塞の外には2000人のトリンギットが住んでいたといいます。こういうシトカを拠点にして、ロシア人たちはずっと南のカリフォルニアにまで毛皮を集めに行っていたといいます。
 もっとも、このロシア人たちの事業は決して順調にいったわけではありません。イギリス人が現れたからです。彼らは最初、ハドソン湾で事業をやっていたのですが、大陸を横断してくると、ロシア商人の支配する太平洋に乗り出してきたのです。いわゆるハドソン湾会社の太平洋岸への侵出です。彼らはロシアの活動を押さえ込むために、トリンギットに武器を与えて戦わせました。そのうち、ロシアとイギリスは正面衝突直前という状況にまでなったといいます。
 もう一つの問題は、資源の枯渇です。乱獲されたラッコは1825年にほぼ絶滅したといいます。海のラッコが枯渇してからは、内陸のビーバーが主役になりました。しかし、この動物もイギリスに乱獲されます。
 会社の経営が思わしくなくなると、ロシア皇帝はこの地を確保しておくのに興味を失っていきました。クリミア戦争などで財政の切迫していた皇帝は、アラスカの売却を考えます。しかし、イギリスに売ることは大変危険です。植民地拡大を続けているイギリスに売ってしまうと、次にはロシアの本体自体が危うくなります。こういう配慮があって、ロシア皇帝はアメリカに売却するのです。1867年、シトカの地に星条旗が立ち、アラスカはアメリカのものになりました(図11)。  
図11 1867年のSitka。トリンギットの家が立ち並び、丘の上にはロシア正教会のチャーチが見える。(Steve J.Langdon , 2002 , p.113 より)


〈さらなる収奪:1867〜1912〉
 星条旗が立った時、トリンギットは反対しました。理由は「自分の持ち物でもないものを、どうして売却できるのだ!」ということでした。しかし、そんな反対は歯牙にもかけられませんでした。すぐにアメリカのアーミーが駐在し、続いてアメリカ商人たちがやって来て、ロシア商人にも勝る収奪が始まったのです。1912年、アラスカが準州になるまでは、ここは事実上の無政府状態でした。無数の無法がまかり通っていました。アメリカ人たちの活動は、金探し、捕鯨、サケの缶詰め、伐採、日用品販売などでした。その様子を簡単に見てみましょう。
 金探しの連中はカリフォルニアから出発してどんどん北上していきました。1910年までには最北のツンドラにまで達し、大小、何十という金鉱山を開いていました。ロシア皇帝は、アラスカは儲けにならないといって放棄したのですが、放棄して10年も経たないうちに、いくつかの鉱山は何千万ドルという儲けをあげました。これはアラスカの売却価格の何十倍にもあたるものでした。たいていの鉱山は短命でした。数年で閉じるものもありました。しかし、その短い期間に町が造られ、人が集められ、無法がまかり通り、病気が広がったのです。こうしたゴールドラッシュの中で、アラスカの首府はシトカからジュノーに移されました。金鉱経済を取り仕切るためには、太平洋に面した海港のシトカよりも内陸へのアクセスのよい陸付きの港の方が具合がよいからです。ジュノーは1900年に首府になり、今もアラスカ州の州都です。
 捕鯨は1830年代からありました。その頃の鯨捕りは北太平洋で操業し、鯨やセイウチの油、鯨のヒゲ、セイウチの牙などを、ニューイングランドに運ぶものでした。しかし、1850年代になるとこの地区の資源が減少したので、北極海に進出します。大型の捕鯨船でやって来て、エスキモーを雇い上げ、操業したのです。この頃のヤンキー・ホエイラーの活動は、エスキモーに大きな打撃を与えました。鯨の減少で、多くのエスキモーが餓死し、さらに病気なども流行しました。セントローレンス島などでは1878〜79年にはその人口の75パーセントが死んだといいます。この北極海捕鯨も乱獲がたたって、頭数の激減をきたし、1914年を最後に姿を消しました。
 サケの缶詰工場は1878年に初めて作られました。それまでも塩ザケを売る商人はいたのですが、缶詰工場ができると一気に様子が変わりました。トリンギットたちが漁業権をもっていた所に大型の船でやってきて、土地の人を雇って大量にサケを捕り始めました。トリンギットの土地に工場を作って、土地の人を雇って工場を動かしました(図12)。1912年にはガソリン船が、1920年には冷凍庫が導入され、沿岸漁業と工場はフル回転するのです。しかし、これは地元のトリンギットに恩恵を与えるものでは全くありませんでした。そのうちカリフォルニアから多くの中国人が運ばれて来、トリンギットは職をはずされる事になりました。中国人はトリンギットより上質の労働力と考えられたからです。乱獲でサケは減り、トリンギット達の生命を支える最も重要な食糧であったサケは川を上ってこなくなりました。
 この頃、森の伐採が始まりました。町が出来たから、建材が必要になったのです。
漁場や工場で使う木材も相当なものになってきました。金鉱地帯でも材木の伐採はもちろん進みました。森は大事にしておくもの、それに囲まれて生きるもの、と信じていた森までが破壊されるようになったのです。
 無尽蔵というほどにいた海獣が捕り尽くされ、鯨がほぼ絶滅させられ、主食だったサケを激減させられる。そして、今は森までもが収奪の対象になっていく。しかも、そうした資源はすべて域外に持ち出されていく。まるで、丸裸にされた土地で生きていかねばならない。そんな状況に置かれたのが、この時期の先住民たちでした。
 
図12 サケの缶詰工場で働く先住民たち。19世紀後半(Steve J.Langdon , 2002, p114 より)

〈先住民たちの要求:1912年以降〉
 1912年というのは、アラスカが初めて準州として認められた年です。初めて下院議員を出しています。ちなみにいうと、ここがアメリカの49番目の州になるのは1959年のことです。
 19世紀も終わりに近づくと、先住民の窮状や環境破壊は中央でも認められるところとなり、ようやくそれへの対策が動き出しました。1884年には先住民の家やキャンプは守らねばならないという基本法ができました。しかし、あまり実効はありませんでした。すぐ後の1894年には事業を始める白人の土地取得権を認めています。例えば、缶詰工場などはこの法律を利用して、トリンギットの地に用地を取得していったのです。さすがにこのことは問題になり、法廷で争われました。しかし、結局、先住民は敗北しました。理由は、先住民は市民ではないのだから償還請求権はない、ということになったのです(Steve J.hangdon, 2002 , The Native People of Alaska p115)。内陸のアサバスカンの土地でも似たようなことが起こっています。1915年、土地のチーフたちと州の議員が話し合いをしているのですが、議員は次のように言っています。もし、土地を持ち、生き続けていきたいのなら、唯一の道は白人のように文明化されることだ。それしかない。
 森を守らねばならないということで、テオドール・ルーズヴェルト大統領は広大なトンガス国立公園を作りました。トリンギットの地にある針葉樹の大森林を大きく囲い込んでしまったのです。前の海と海岸は缶詰業者に取られてしまっています。背後は国立公園になりました。トリンギットたちは本当に窮地に立たされてしまいました。
 1912年、準州になると、トリンギットの若者がANB(Alaska Native Brotherhood)を立ち上げました。これは市民権を獲得する運動です。これを皮切りにいろいろの人たちが立ち上がり、1935年になってやっと様子が変わりました。トリンギットも土地が持てるということになったのです。
 第二次大戦後もいろいろのことが起こりました。ひとつは1950年代に入って、パルプ材のための森林伐採が始まったことです。それまでは建材として用いるために、大きな木だけが抜き伐り出されていただけでした。しかし今度は違います。大小を問わず、全面伐採です。伐採後は二次林になっているところもありますが、牧場に変えられてしまっている所も少なくありません。海岸沿いだけでなく、内陸にもこの伐採は広がっていき、かつての森の景観は変わってしまいました。
 もっと最近に起こった変化は1971年、北極海で石油が発見され、それの開発にともなって起こった変化です。すでに1977年には1000キロメートルを越すトランスアラスカ・パイプラインが建設され、動物の移動を妨げるなどの影響を起こしています。海岸では流出した石油による環境汚染が深刻だといわれています。
 アラスカは1958年に州に昇格したのですが、それにともなっていろいろの議論がされました。その中で大きな議論になったのが、土地問題です。アラスカ全土の約3分の1を州の土地にするという案です。すでに土地問題に関して大変敏感になっていた先住民たちは、すぐにこれに反対しました。俺達の要求している土地はどうなるのだ、そもそもこのアラスカは俺達先住民の土地ではないか。北極海油田の開発が進み、環境問題などが取り上げられるようになると、この油田の将来計画ともからんで、土地問題は一層複雑かつ大規模なものになっていったのです。
 この問題は2006年の今日、まだちゃんとは解決しておりません。土地問題は現在のアラスカが直面している最大の問題といってもよいかと思います。この問題に関して、先住民がどういう主張をしているのか、それは後にもう一度、改めて述べたいと思っています。

第2章 東南アジアの森と港と焼畑

 以下に述べるものは、20年ほどにわたる私自身の東南アジアでの調査の、いわばエッセンスです。その間に知り合った人たちのことを思い浮かべながら、書いてみます。

[1]東南アジアの輪郭

 もう20年ほど前になりますが、「東南アジアとアフリカ」というシンポジウムがありました。一言で言うと、それぞれの本質は何なのか、それを明らかにしようというものでした。その時出てきた結論のひとつが、東南アジアは海で、アフリカは大陸だ、ということでした。東南アジアはアジアから突き出た半島と無数の島からなり、その全体が森で覆われている。一方、アフリカは島をほとんど持たない大きな大陸で、主体部は砂漠だ、ということでした。これは両地域の特徴をよく現した表現だと思います。

〈大陸部と島嶼部〉
 右の議論には異論もありました。東南アジアといっても一律ではない。半島部と島嶼部では大きく違うではないか、ということです。もちろんその通りなのです。昔から東南アジアは大陸部と島嶼部に分けられてきました。それを前提とした上で、それでも、アフリカに比べると東南アジアの特質は海と森である、ということでした。
 詳しく見ると、大陸部と島嶼部の違いは次の通りです。まず大陸部ですが、これはいわゆる米どころです。雨季と乾季が繰り返されるモンスーン気候をもっていて、米作に適しているのです。雨季に入る直前に籾を蒔いておくと、雨季の雨で育ちます。乾季になると実ります。大陸部ではまた、圧倒的に多くの人たちが仏教徒です。米を作る仏教徒のいるところ、それが大陸東南アジアといってもよいでしょう。
 一方、島嶼部東南アジアは原則的には米を欠きます。または米が非常に少ない所です。その代わり、森林が広大に広がります。この森林からは香料をはじめとする、いわゆる森林物産が多く採集されました。少なくとも第二次世界大戦まではこういう状態でした。何故森が広がっていたかというと、一年中雨が降っているここは、病原菌がいっぱいいて、人間が入り込むとたちどころに殺されてしまうような所だったからです。もっともこれはいささか極端に過ぎる表現で、実際には人間はいました。森のはずれの海岸に住んだり、山の高みに住みました。高みで少し冷涼になると病原菌が少なく、蚊などもぐっと減るからです。そういう所だけには人が住み、焼畑をやりました。
 島嶼部東南アジアはイスラーム教徒の多いところです。これは香料などを求めてやってきたイスラーム教徒がこの宗教を広めたからです。島嶼部東南アジアは、だから、森が広く、香料採集と香料貿易を中心にし、イスラーム教徒の多いところ、ということができます。

〈歴史〉
 東南アジアの歴史は稲作の到来で始まるといってもよいかと思います。前1000年紀、おそらくは日本の弥生時代開始と同時期かそれより少し早く、中国南部から稲が広がっていきました。しかし、この稲作は先にも述べたような理由で大陸部東南アジアに留まった可能性が大きいと思われます。島嶼部東南アジアにはそれより少し遅れて、しかも少しは涼しい山の背などにだけ入ったのだと思われます。
 簡単にいってしまうと、大陸部東南アジアはその後一直線に稲作を中心とする地域に進んでいくのです。しかし、島嶼部東南アジアは違った進み方をします。紀元前後になると中国と地中海を結ぶ東西交易が盛んになりだします。この時、航路が東南アジアを通ります。航海者たちはほどなく島嶼部東南アジアの香料の存在を知り、やがて香料を求める動きが始まります。豊富な森林物産はこの動きを大きく展開させることになりました。島嶼部東南アジアはこうして、熱帯の森林物産の産地として生きていくことになるのです。
 航海者たちは最初はインド人や中国人でした。しかし、8世紀ぐらいになって、イスラーム経済が勃興する頃になると、ペルシアかアラビアからのイスラーム商人たちが中心になりました。彼らはそのうちにいくつもの港を開き、自分たち自身もそこに住み、いわゆる地域のイスラーム化を進めていきました。混血が起こり、イスラーム教が広まり、貿易のためのリンガフランカ、マレー語が定着していきました。13、14世紀にはこの動きが非常にはっきりしたものになります。マレー語が話され、イスラーム教が広がり、貿易を中心とする世界、いわゆるマレー世界が誕生するわけです。
 こういうことだから、この島嶼部世界はまた、港の世界です。航海者の世界です。しかし、同時に森林物産を出す森の世界でもあります。また、山では、少しですが、稲作も行われています。森に囲まれて、焼畑稲作が行われているのです。以下には、典型的な東南アジア島嶼部のことを書いてみたいと思います。

[2]非日常の空間・森

〈瘴癘の地〉
 東南アジアの森は森林物産の産地です。沈香や竜脳などの香料を出しました。他に籐やダンマール、蜂蜜、それに象牙やワニ革なども出します。森を流れる川に砂金があることもありました。森は、文字通り宝の山だったのです。
 しかし、ここは同時に瘴癘の地でもあり、人を簡単に殺してしまいます。いろいろの病原菌がいるのです。その中でも最も多いのは、マラリヤです。多くの人たちがマラリヤにかかって死にました。特に外からやって来て、森に慣れていない人は簡単に死んだようです。人口史的にみると、森は人を吸い込んでは殺してしまう、ブラックホールのようなところだったようです。だから、人々は可能な限り、森をさけて生活してきました。森は宝の山です。しかし、それを採りに入る時には、サッと入り、サッと逃げ出してくるような工夫をしなければなりませんでした。

〈森林物産採集〉
 森の人たちは多くは海岸の波打ち際に高床の家を建てて住みました。時には海岸のマングローブよりもさらに数十メートル、あるいは数百メートルも離れて海の中に家を建てて住みました。こうしておくと、蚊などもぐっと少なくて、病気にかかる心配は少なくなったのです。大きな川のある所でも同じでした。川風が蚊を吹き飛ばしてくれたからです。もちろんこういう状況ですから、移動手段は舟です。日常の足には丸木舟が用いられました。家の床から直接梯子で舟に降り、その丸木舟で隣の集落や森に出かけました。
 森は瘴癘の地ですから、落ち着いて農業をしているなどということはできません。食糧は基本的には外部から供給されました。集めておいた森林物産を仲買人である中国人などが取りにきた時、引き換えに米などを置いていったのです。しかし、それだけでは充分ではありません。それで森の縁辺で少しは畑を開き、イモ類やバナナのような、いわば捨て作りでも出来るようなものを作りました。またサゴヤシといって澱粉を蓄えるヤシを作りました。作るといっても、これはほぼ野生の状態で育ちますから、いわば採集をしたわけです。

 サゴヤシのことを少し書いておきましょう。これは1株植えると地下茎を伸ばしていって、どんどん増えます。竹の子のような芽が出ると、10年も経てば成木になり、幹に澱粉をためます。澱粉をいっぱいつけた繊維質の髄ができるわけです。それを取り出して水洗し、澱粉だけ分離するのです。
 もう少し詳しく説明すると、次のような具合です。成木は直径60〜70センチメートル、高さ8〜9メートルになります。それを伐り倒し、丸太状のものにし、それを二つ割にして、中の髄を鍬状のもので掻き出します。掻き出したオガクズ状のものを大きなザルに入れ、上から水をかけて手か足で揉みます。すると繊維はザルに残り、澱粉だけが水と一緒に落下します。それを沈殿槽に受けて、澱粉を沈殿させるのです。そのやり方は、かつて日本でも行われた葛澱粉の製法と同じものです。サゴヤシ洗いは実際には森の中の川べりで行うことが多いですから、蚊に食われることは必至です。多くの人たちがこの作業中に蚊に食われ、マラリヤにかかりました。
 
図13 サゴを洗う。スラウェシ島、1980年頃
 サゴは水洗いしていますから、ほぼ純粋な澱粉です。それで、栄養バランスを考えると、脂肪や蛋白やミネラルは別途摂らねばなりません。脂肪は普通、油脂を多く含む木の実からとりました。蛋白は魚からです。ミネラルは魚介類や野生の木や草の新芽などからとりました(図13)。
 今ではもうすっかり少なくなってしまったのですが、太平洋戦争までだと、まだいわゆる森林物産採取が森の生活の中心でした。その中でも最も伝統的なものは香木採取だったといいます。これは一種の秘儀として行われたようです。香木は大木の幹の中にあったり、時に地下に埋もれた倒木の中にあったりして、普通は見つけにくいものです。だから神通力のある人をリーダーにして採取に行きました。その人が〝この木だ〟というと、その幹を開いて香の濃縮した部分を取り出しました。高価な香は人の話し声を聞くと逃げてしまうので、皆、黙って森を歩いたそうです。どうしても話さねばならない時には、隠語を使ったようです。例えば、米のことは「草の果物」、猪のことは「短脚」といった類です。その他にも、いろいろのタブーがあったようです。例えば、遠征中は水浴してはならないなどです。万一、誰かがタブーを破ったりすると、香は逃げたり品種が劣化したりするのです。例えば、良い竜脳は綺麗な結晶なのですが、タブーが破られるとそれは液状になっていて、幹を開いた途端に流失してしまう、といった具合です。
 香木集めはかなり古風な趣を残した森林物産採集なのですが、この他にもっと簡便なものもありました。もっと普通に手に入るマツヤニの類とか、籐集め、蜂の巣とり、それにワニ捕りなどもあったようです。先に述べたサゴヤシ澱粉も、19世紀の中ごろになると、単なる自家用ではなく一種の商品となったようです。イギリスなどがそれを工業用澱粉として求めるようになったからです。いずれにしても、こういうものを集めておくと、仲買人が集めに来たのです。
 森の人たちは、普通、森を恐れています。妖怪に脅かされたり、神隠しにあったりするからです。しかし、特別な人は森に入って守護神をみつけ、あるいは呪術師になったりします。私の知り合ったスマトラのマジェリ翁は、そうした呪術師の一人です。マジェリ翁のことを少し紹介しておきましょう。

〈呪術師マジェリ〉
 マジェリ翁はゴムとサゴヤシを作る村の一人でしたが、弟と仲違いをして、村を出て森へ入ったのです。森に25年間こもっていたのですが、私がその村を訪れた時には呪術師になって村に帰っていました。村人は彼を大変恐れていました。紛失物の在り処を言い当てるし、病人を治すし、神隠しにあった人を連れ戻すといっていました。私は半信半疑でした。私は直接確かめてみようと思って、マジェリ翁に聞いてみました。すると、翁はいとも簡単に言ったのです。〝神隠し?オランブニヤの国があってそこに連れて行かれるのだ。そこはこの村と同じで何でもできる。結婚も出来る。でもこの世ではない。だから一旦そこに行ったら、もう帰ってはこられない。ただ、私はそこに知人がいるから連れ戻すことができる。何故、知人かというと、そのオランブニヤがスラットパンジャンに買い物に来ていて病気になった。困っていたところを私が助けてやって、それから友達になったのだ。オランブニヤなんて、たくさんいるよ。私達と同じ顔をしているが、手に骨がない。手を握ってみて骨がなければオランブニヤだ〟私はあまりにも開けっぴろげの話に、ますます、この人いい加減なことを言っている、と思っていたのです。ところが、最後の瞬間になって、彼が相当な実力を持っていることを認めざるを得なくなったのです。
 その日の朝、私は森の中の翁の家に通訳の学生と2人で行きました。調査が完了して村を出ることになったので、挨拶に行ったのです。お別れだからと言って、翁はコンロを出してきました。お茶でも出してくれるのだと私は思いました。ところが、彼はそのコンロを私の前に置くと、懐から木片を出して、山刀で削り、削りくずを火の上に落とし始めました。小さい煙が立ち登りました。やがて、そのコンロを私に近づけて、何も言わずに黙っています。不思議なことをするなと思いながら、私も黙っていました。しばらくすると、通訳が〝何かにおいがするか?〟と聞いてきました。何もしません。そこで黙っていると、しばらくしてまた〝何かにおいがするか?〟と聞いてきました。通訳がアローマという言葉を使ったので、芳香がするはずです。少し焦げ臭いにおいはしますが、別に芳香はしません。黙っていると、また聞いてきました。そのうち私はだんだん変になってきました。芳香がするかと聞いているから芳香がするはずだ。でも何もしない。〝しない〟と答えたら〝罰当たりめ!心が汚れているから匂わないのだ〟と怒られるかもしれない。〝良い香りがする〟と答えようか。でもそんなこと言ったら〝この嘘つきめ〟と、もっとひどいことになるに違いない。そんなことを考えているうちに、私の体は硬直してしまい、頭は真っ白になってしまいました。何分くらい経ったか分かりません。5分くらいだったのではないでしょうか。そのうち、スーッと弱い芳香がしたので〝いい香りがする〟と言いました。すると翁は黙ってコンロを私から引き離しました。
 次に全く同じことを通訳に行いました。通訳が見る見るうちに硬直していくのが分かりました。やがて彼が何か言うと、コンロは引き下げられました。
 それが終わると翁は先の木片をもう一度削って、それを小さな紙の切れ端でくるんで2包みにしました。私に、手を出せというので掌を上に向けて出すと、その上に通訳の手をやはり上向きにして重ねさせました。そして、その上に2包みを置き、自分の両手で上下から挟んで、何か呪文を唱えました。それが終わると、〝将来、何か困ったことが起こったら、この包みを開きなさい〟といって手を離しました。ちょうどその時、家の外で誰かが声を張り上げました。翁が返答すると、若者が梯子を駆け上がってきて、いきなり〝ガァルウ〟と言いました。私はハッと気がつきました。何だ、ガァルウか。沈香じゃないか。翁の燃やしてくれたのは低品質の沈香だったのです。
 話はそれだけなのです。翁が呪術をかけたのか、私が自己催眠に陥ったのか、それは未だにはっきりしません。はっきりしないのだけど、これは強烈なものでした。いまだにあの時の恐ろしさをはっきりと憶えているのです。そして、同時にあんな素晴らしい送別会は後にも先にもなかったな、と思うのです。
 森はそういう力をもった人を生む場であることは間違いないようです。

[3]賑やかな港

 港は森とは全く逆で、人の動きが激しく、いろいろの人たちがまじり合って賑やかで国際的な雰囲気をかもしています。

〈典型的海民ガフン氏〉
 マジェリ翁と全く対照的な生活を送ったガフン氏のことを述べておきましょう。港の住人の生活の様子、特にその賢い生き方が分かっていただけるだろうかと思うからです。
 ガフン氏は1914年生まれです。私がマラッカ海峡の水上集落で出会った時には同氏はそこの村長を終えて隠居生活をしていました(図14)。
 ガフン氏が住んでいた水上集落のブカワンは一本の桟橋の両側に高床家屋の続く細長いものです。100戸のマレー人の家があり、その延長に30戸のオランラウトの家がありました。これはオランラウトの定住プログラムで、政府が建てた家です。それと別に、この列に対面するような格好で8軒の福建人の家が、これも高床で建っていました。マレーたちがフキエン(福建)と呼んでいたこの人たちが中国籍なのかインドネシア籍なのかは、私には分かりませんでした(図15)。背景を全く異にする三つのグループの人たちが住んでいて、その中でガフン氏は隠然たる力をもつ首長だったのです。

 
図14 ブカワンの村長一家。1984年
 
図15 ブカワンの福建人漁民。1984年

 ガフン氏はこのブカワンから300キロメートルほど離れたカユワグンという所で生まれました。これはスマトラを流れるムシ川という大きな川沿いにある川港です。父はその川港を根拠地にして、シンガポールからマレー半島東岸、さらに遠くタイ湾岸にかけて行商をしていたようです。日用品や塩魚を運んだといっていますが、どうやら塩の密輸をやっていたようです。当時、このスマトラはオランダの植民地で、塩はオランダの専売品であったのですが、その網の目をくぐって商売をしていたようです。塩魚と偽って、塩を販売していたようなのです。そのうち、友人数人と語らって、エビの漁場を開きました。漁場といっても簡単なものです。バガンといって、遠浅の海に高床の家を建て、その床下に口径2メートルくらいの網を下ろしてエビを捕るのです。網は上下できるようになっていて、引き潮になると下ろします。このあたりの引き潮は猛烈な速さで流れますから、潮に流されてきたエビが網に入るのです。それを引き上げ、エビを捕らえるのです。捕らえられたエビは床の上に据えた大釜で茹でて、干しあげ、殻をはずしてムキエビにするのです。マラッカ海峡の浅瀬に住んで、これを一年中やるのです。父がこのエビ漁を始めるようになったので、ガフンは2歳の時、ここに移り住みました。それから10年間、そこに父、母と一緒に住み続けたといっていました。
 12歳のとき、ガフン少年はシンガポールに出て中国人所有の小さな船の飯炊きになりました。16歳になると資格を取ったので、中国人所有の船の船長になりました。そして、23歳のとき、独立したのです。少し金ができたので、ボロ船を買い、それでエビの運搬を始めました。バガンで捕られたエビを集めて回って、シンガポールに運んだのです。この時にはシンガポール在住の日本人仲買人に売ったと言っていました。31歳になると、外洋航路の副船長の資格を取ったので、チモール、ジャカルタを通う大型貨物船の副船長になりました。しかし、これは間もなく止めてジャカルタに住み、屑鉄回収業を始めました。屑鉄を日本に出して、釘やセメントを輸入するという仕事をしたのでした。しかし、これは失敗に終わり、オーストラリアに移っています。当時、オーストラリアには危険で命の保障はないが金になる、真珠ダイバーの仕事があって、破産した人たちがよくそこへ行ったそうです。ガフン氏もそこに行きました。しかし、これは1年で辞めてシンガポールに舞い戻りました。37歳のときです。そして、マラッカ海峡で漁具を売り、魚を集める仕事をしたのです。これを6、7年やって、43歳になると東インドネシアのスンバワで漁場を開きました。これは変わった漁場でした。筏を浮かべ、そこからヤシの葉をいっぱいくっつけた紐を垂らしておくと魚が集まる。それを捕るのです。スンバワの人たちをたくさん集め、何十もの筏を浮かべて魚を捕らせました。そうして捕った魚をシンガポールに運んだといいます。
 46歳になると、また仕事を変えました。この頃、すなわち1960年代になると、スマトラの低地でココヤシ園開設が盛んになるのですが、ガフン氏もこれに投じたのです。15人の仲間を集めて、広いココヤシ園を開きました。ココヤシ園開設というのはそんなに難しくありません。海岸の低湿地に幅1メートル、深さ1メートルぐらいの溝を掘るのです。海岸から内陸に向けてまっすぐに何キロも掘ります。するとそこに潮が入ってきて、満ち潮、引き潮があって悪水を抜いてくれるのです。同時に潮の流れで溝はたちまち幅の広い水路になります。こうして出来た水路の両側を仲間で分け合って、ココヤシ園にするのです。ガフン氏自身はこの時3ヘクタールを得たといいます。7、8年もすると、このココヤシには実がつきました。すると中国人がやってきて近くにコプラ工場を建てました。ココヤシ園開設は成功したのです。ココヤシ園を開設してから、同氏はブカワンの集落に住むようになりました。そして、56歳のとき、村長に推され、それから10年間、村長を勤め上げたのです。私がここを訪れたのは1984年だったのですが、70歳になっていたガフン氏はもう村長を退いていました。しかし、まだかくしゃくとしていて、長老兼医師という生活を送っていました。同氏は石を用いた独特な医術をもっていて、夜泣きする子などをそれで治していました。
 ガフン氏のパーソナルヒストリーを聞いて、私が驚いたことは何よりもまず頻繁に仕事を変え、広範に動き回っているという事実でした。一つの仕事をいとも簡単にやめて、次の仕事に取りかかっています。古い友達は友達としておいておいて、それとは別に新しい社会に物怖じもせずに飛び込んでいく、その腰の軽さとバイタリティーに驚きました。そして、実に広い知識をもっていました。漁業のこと、船乗りのこと、森林物産のこと、それから商売の仕方、何でも知っているのです。さらには各地の情報に通じていました。シンガポールのこと、名も知れない小島のこと。そんなことを本当に良く知っているのです。そればかりではありません。日本の政治や経済のこと、国際情勢のこと、いわばあらゆる情報に精通しているのです。
 ガフン氏はまた、全く別の面ももっていました。先に少し触れた医術です。同氏は一抱えほどもある大きな石をもっていて、それで病気を治したのです。患部にそれを打ち下ろし、あわや患部を直撃、という直前でそれを止めるのです。すると病気がびっくりして逃げ出すのだと人々は言っていました。人々は、〝あの人の体にはクリス(短刀)が突き刺さらない〟と言って恐れていました。先のマジュリと同じような恐れられ方をしていました。彼もまた一種の呪術師だったのでしょうか。

〈ザイール氏とジョン〉
 ついでに、ガフン氏のまわりにいた人たちのことも簡単に紹介しておきましょう。ガフン氏を継いで村長をしていたのが、ザイール氏でした。私はこの人の家に泊めてもらっていたのですが、六尺豊かな身長で、物腰が柔らかく、高貴な感じのする人でした。食事の時はいつも私に付き合ってくれ、皿に盛り付けたりしてくれました。
 この人は若い頃、対岸のサゴ林の近くに住んでいて、サゴ洗いをし、それをシンガポールに運んでいたようです。助手に子供を1人雇い、5トンの帆船でシンガポールに通っていたといっていました。戦争が起こると日本軍が来て船造りを命じたので、上流から木を下ろしてきて船を造ったとも言っていました。敗戦で日本軍が去ると、またしばらくサゴ洗いに戻りました。しかし、その後、ブカワンに出てきてエビ漁に転じ、後にはココヤシ開園にもたずさわったそうです。ガフン氏とは仲がよく、2人でブカワンを牛耳っている観がありました。
 もう一人、私が仲良くしていたのはジョンです。この人も大変長身でした。この人はオランラウトです。少年の頃は陸上の家がなく、仲間のオランラウトと一緒に船だけの生活をしていました。北東風の時には島の西側に行き、南西風になると東側に移動して漁業をするといった生活をしていたようです。しかし、そのうちに外洋船の船乗りになり、世界中を回ったようです。おかげで英語が出来ました。妻は東インドネシアのアンボンの人だといっていました。年をとったので生まれ故郷に近いこのブカワンに来て、今はゆっくり暮しているのだと言っていました。ジョン自身は高床の家に住んでいたのですが、彼の仲間のオランラウトの何人かは、まだ船住みで、ブカワンの近くを動き回っていました。
 こうして見てみると、ガフン氏だけでなく多くの人が動き回り、多くの経験をしているようです。そして面白いことは、いわゆる森の人だと思っている人たちが、ある日、突然、海に出てきて海民になっていることです。ザイール氏の話を聞いているとそんなことを考えざるをえないのです。

〈密輸〉
 ここでひとつ、やや不穏当に聞こえるかもしれない話を付け加えておきましょう。悠然と暮しているガフン氏らは、ひょっとすると密輸で生きていたのではないかということです。
 先にブカワンには8戸のフキエンがいると書きました。彼らはブカワンでは新来者なのです。元々のブカワンにはマレー人しか居らず、彼らはトゴでエビ捕りをしていました。そこにフキエン達はマレー人の10倍の威力のある網を1人で何張りも持ってきて、同じエビを捕り出したのです。マレー人達のエビ漁はいっぺんに吹き飛んでしまいました。それまで百数十張りもあったマレー人のトゴは、ジョンが手慰みに行う一張りだけを残して、完全に消滅してしまいました。私がブカワンを訪れた時には、マレー人達は全員がフキエンに雇われてフキエンのエビ漁の賃労働者になっていました。
 こんなことがあっていいのか!正直言って私はこれを見た時、おおいに怒ったものです。それにしても不思議だったことはガフン氏やザイール氏が平然としていることでした。ブカワンを離れてからも長い間、このことの意味が私には謎でした。ただでさえ飽和状態であったはずのマレー人の漁場に新たに巨大な網を持ってきて、大々的に操業している。一体これで経済的に成り立っているのか。何故この闖入者を追い出さないのか、これが不思議でならなかったのです。今もって私には確かな答えは得られていません。しかし、その後、いろいろの所を歩き回り、ひょっとするとここは密輸の基地だったのか、それだとしたら分かるな、と思うようになったのです。
 密輸と書いてしまうと悪事のように聞こえます。確かに今、この地域を支配している欧米風のルールの中では、ルール違反で悪かもしれません。しかし、よく考えてみると、このルールとされているもの自体が実はずいぶん身勝手なものなのです。それまでに存在していた在地のしきたりを力で排除して押し付けたルールなのです。この種の不条理は他にも至る所でみられます。マレー人の小舟が魚捕りに出、土地の物産を運んでいるのを掻き分けて何十万トンという石油タンカーがおし通って行きます。こんなものを見る時、つくづく考えさせられるのです。
 現実がこういうものであったとしたら、地元民とすればそれを認めたうえで、その中で賢く生きていく手を考えざるを得ないのです。それが、生き延びていくということです。しかも、出来ることなら、事を荒立てて無駄なエネルギーを使ったりしないやり方で生きていかねばならない。それが賢明な生き方ということなのでしょう。国境に近いこの海域では、日頃はエビ捕りをしながら、しかし時にはもっと大きい非合法の取引がありうる。
 ガフン氏やザイール氏の生き方を見ていると、そんな気がしてくるのです。マレー人もオランラウトもフキエン人も、お互いに連携してこの国境の海で生きていく、与えられた条件の中で賢く、たくましく生きていく。そんな人達の世界、それがマレーの海民の世界のように今は見えてならないのです。

〈港の構造〉
 本来のマレーの港のことを書いておきましょう。
 この辺りの海域には紀元前後の昔から多くの港が造られています。東西交易の中継港は2000年の歴史を持っているのです。また、そうした中継港とは別に、いくつもの森林物産積出港も造られました。島嶼部東南アジアは実はそうした中継港と森林物産積み出し港を合わせた貿易ネットワークの中で生き続けてきたのです。ガフン氏やザイール氏、ジョンの一生も、そういう大きな枠組みの中で考えると、うまく理解できるようです。こうした港の中には、その成り立ちや経済の様子が良く分かっているものがあるので、それを紹介しておきましょう。
 少し古い話ですが、18世紀末から19世紀初めにかけて、シアク・スリ・インドラプラ港というのがありました。この港は今のシンガポールの真西にあったスマトラの川港です。川港であると同時にシアク王国という当時のスマトラでは最強の王国の首都でもあった所です。そこの人口構成は左のようなものでした。
   スマトラの土地の人  11000人
   王の連れてきた人   1000人
   アラブ人とその子孫  100人
 土地の首長に率いられた11000人の人たちが居たところに、他の所から王が1000人の人を連れてきて港を作ったのです。また、そこには別にアラブ系の商人100人が入ってきていたということです。実際にはこの川港には河口に別の一区画があって、そこには海賊550人が住んでいました。土地の人、王の連れてきた人、アラブ人、海賊の、4種の人でもっていわゆるシアク王国というのが作られていたのです(図16)。
 
図16 シアクの王宮。1984年当時は博物館になっていた
 マレーの大きな港の出来方に関しては、だいたい決まった筋道があるといいます。それは次のような具合です。首長に率いられた土地の人たちが居るところに、遠くから商人がやってくる。商人はそこの森林物産の搬出を狙ってやって来るわけです。商人はしばしばアラビア系の人たちだったといいます。やって来た商人は首長と話をつけて港を作ります。森林物産搬出の利益は山分けするという話です。この際、首長は土地の人たちに命じて森林物産を森から運び出す。商人の方は販売方を引き受けるということです。
 基本的な合意がなされると、具体的にはもっといろいろのことがなされました。商人は自分の配下を連れてきて港を建設します。ほとんど全ての商人はイスラーム教徒でしたから、まずモスクを作りました。そして、もうひとつ、防備を固めるという意味で、河口には軍港を造りました。河口におかれた550人の海賊というのは、この軍港を守った人たちです。
 計画がうまく進みだすと、たいていはもう一つのことが起こりました。やって来た商人と首長の娘などが結婚するのです。この時点でしばしば商人は王ということになり、モスクに並べて王宮が造られます。王国経営は実質的にはこうして出来た王と在地の首長と軍港にいる海賊の長の三者で行われたようです。マレーの王国はいわば、王と首長と水軍の長が共同経営する会社のようなものだったのです。王はアラビアやインドに直結している販売担当、首長は土地に根を生やして集荷を担当する、水軍の長は仲間の海賊とともにこの海域の航行の安全をはかる。そういう三者が契約を結んで国を作っている、というのです。
 こういうわけで、王、首長、水軍の長は経済的には同列なのですが、実際には王は一段高いところにいたといいます。土地の人たちは、王は白い血をもっていて、普通の人間ではない、特別な、神に近い存在だと考えていたようです。マレー世界には古くからマレビト信仰というのがありました。いつか遠いところから高貴な人がやって来て、自分達を治めてくれる、という信仰です。イスラーム教をもってやって来た商人は、このマレビトとして受け取られたようです。
 経営的には王、首長、水軍の長を取締役とする会社のようなものだけれども、精神的にはイスラーム教徒の王を頂点とするまとまりを作っている。そういう社会が、主要な川筋ごとに出来ていった。これが島嶼部東南アジアの構造なのです。

〈開放的な世界〉
 イスラーム商人のことを中心に書きましたが、島嶼部東南アジアにやって来た人たちはイスラーム商人だけではありません。数の上でいうとイスラーム商人よりもっと多くの華人たちが入ってきました。華人たちの到来も7、800年の歴史があり、その間に多くの混血集団を作りました。この100年ほどをとってみると、日本人や欧米人の到来者も決して少なくありません。島嶼部は実に大量の他国者たちを受け入れ、それらを自分の身体の中に取り込みながら、おのれの世界を作ってきたところ、とそんな風に考えてよいかと思います。
 こんなことが歴史の大筋で起こり続けてきたのですから、ここの社会にはいくつかの特徴があります。まず第一に混血ということです。これは、血という意味で起こっているのですが、それと同時に文化面でも起こっています。もともとこの地にあったと考えられる森の文化があります。それにイスラームの文化が重なっています。華人たちがもって来た儒教や道教という文化もあります。欧米人や日本人の到来で近代合理主義というのも加わりました。それらが融合したり、並立したりして、とにかくそこに共存しています。しかもその有り様は、例えばヨーロッパなどでは考えられないような、平和な共存です。
 異質なものが共存しているこの有り様は、見方によっては、主体性のなさ、無節操にもみえます。現に今まではそういうレッテルを貼られることが多かったです。〝だからマレーの人間は主義主張がなく、頼りにならない〟などという言い方をされたようにも思います。しかし、どうやらこの見方は根本的に変えたほうが良さそうです。弾力性、融通無碍、他形性などという言葉で置き換えた方が良いのだと思います。事に応じて弾力的に対応していく、互いに融通しあい、碍(さまたげ)ない。あるいは他者の形を認めて、それに応じて自分の形を整えていく。外部に向けて開いていたという長い歴史の中で、島嶼部の人たちはこういう共生の能力を獲得してきたのです。
 ガフン氏にしてもザイール氏にしても、ジョンにしても、こういうオープンなシステムの中で自分を失わず、さりとて争いもせずちゃんと生き続けてきた強靭な人たち、そのように私には見えるのです。

[4]焼畑の民と稲魂

 焼畑をする人たちは森に囲まれて生活していて、先に述べた森林物産採集者と基本的には共通するものを多くもっているのですが、稲という特別なものをもっていて、別の特性も持っています。この人たちが焼畑に、稲をどんな風に、どんな気持ちで作っているのかを紹介してみます。

〈焼畑の村〉
 模式的にいうと、焼畑の村というのは広大な森に囲まれて、そこだけ明るい集落の空き地を作っています。そこで村人はまるひとつの家族のように固まって住んでいるのです。集落の近くには、焼畑とその跡地があります。今年稲を作っているところはもちろん畑ですが、去年作っていたところはもう藪になっています。数年前に作っていたところは若い林になっています。その周りの森は、先に述べた「恐ろしい森」で、これが広大に広がり、普段は近づかない非日常の世界になっています。こうして、焼畑地帯は今年の稲が生えている日常の空間から恐ろしい森までを含めて、いわば日常と非日常との相接する場なのです。
 集落そのものは新しいものから古いものまでいろいろあります。定着して百年以上も経っているという所から、つい近年になってやっと定着したという所まであります。後者の場合だと、開村儀礼の様子がまだちゃんと記憶されています。例えばスラウェシ島北部のゴロンタロの一村などがその例です。開村儀礼の詳細はここでは述べませんが、要するに森のカミの許可を得て、そこに村を作らせてもらったのです。だからこの村は充分に感謝の気持ちを込めて、森のカミガミにたくさんのお供え物をいたしました。お供え物の中心は焼いた鶏と七色に染めた御飯だったようです。

 

図17 スラウェシのムサ・イスマイルの家と家族
  〈焼畑稲作〉
 そのゴロンタロで、村長のムサ・イスマイル氏から聞いた稲作の様子を記してみます。聞き取りは1985年に行っています(図17)。
 〝他の所では森を伐る儀礼をやるが、自分達の所ではやらない。1915年に開村した時に大きな伐採儀礼を行ったので、それで勘弁してもらっている。最初の仕事はその年の稲を作る場所の選地だが、それはパンゴバが中心になって行う。パンゴバというのは村にいる4人の役付きのなかで耕作を担当する人間だ〟
 〝土地が決められると、そこの木を伐り倒してしばらく乾燥させ、その後火をかけて焼く〟
 〝稲作の本当の開始はトゥオト作りだ。長さ1メートルぐらいの棒4本で焼いた畑の中央に四角い区画を作る。これがトゥオトだ。トゥオトの中心にはテロロ・トトアを立てる。これは太さ4センチメートルぐらいで、長さ1.5メートルぐらいの棒だ。テロロは母、トトアは棒という意味だ。テロロ・トトアを立てると、それに添えてブル・チュイ(穂先の付いた小さい竹)を1本、赤葉のタボンゴ(クマタケランに似た草)、斑入りのタボンゴを1本ずつ立てる。さらにポロフンゴ(シソに似た赤葉の草)3本をそのそばに植える。そして、種籾を入れた篭をそばに置く〟
 〝これが終わると、プーンテと、メメの草を細かく刻んでココヤシ油に入れ、香油を作る。安息香を持ってきて、それをココヤシ殻の上で焚き、それを立てたばかりのテロロ・トトアのまわりを半時計周りに3回めぐらせる。そして香油を振りかける。こうしてオポオポを呼び出す。オポオポはいつもは森に住んでいる精霊だ  〝オポオポを呼んだ直後にトゥオト(以下、斉囲)に堀棒で五つの孔を開ける。そして、そこに篭の籾を蒔き入れる。蒔いた後、篭は野小屋に運び、口が上を向くようにして吊るす。この篭は稲が実り始め、首を垂れるようになると、逆さにし、口が下を向くようにする〟
 〝この斉囲の播種はパムゴバが行う。斉囲の播種が終わると、畑の持ち主と手伝いに来た人たちが斉囲を挟んで2組に分かれ、それぞれに後ずさりしながら窄孔、播種していく。夫が堀棒で孔を開けたところに妻が籾を蒔きこんでいく。この播種のときには耳飾や腕輪は取り外しておく。そんなものを付けておくと、蒔いた籾はネズミや鳥に食われる〟
 〝播種した日の夕方には関係者の皆で共食をする。鶏などのご馳走を食う〟
 〝畑に蛾が多く出たり、稲に病害虫が出たりするとパムゴバに頼む。するとパムゴバは斉囲のテロロ・トトアに手をかけ、病害虫を追っ払ってくれるように頼む〟
 〝播種して1ヶ月ほどすると除草をはじめる。パムゴバが斉囲で行う。この時に除草に用いたイイ(篦)は3日間、斉囲においておく。4日目にはそのイイを用いて本格的な除草を行う〟
 〝穂が出始めると香油と安息香を持って斉囲に行く。安息香を焚いたココヤシ殻をテロロ・トトアの周りを反時計回りに3回めぐらせ、その後、左手をテロロ・トトアにかけ、右手で香油をまわりにふりかける〟
 〝この頃は大きな声を出したり、喧嘩をしたりしてはいけない。そんなことをすると母稲の魂が飛び去ってしまう。そしてオポオポが怒って、畑の持ち主を病気にする〟
 〝穂が黄ばみ始めると、もう一度安息香を焚く。テロロ・トトアの回りを3回めぐる〟
 〝摘み取りは最初、パムゴバが斉囲に来て行う。七穂を摘み取り、すぐに白い布で包み、野小屋に持ち帰って箕の上に置く。この箕には七穂のそばにココヤシ殻に入れた香油と安息香と空のココヤシ殻を置く。これが終わるとパムゴバは直ちに畑にとって返し、斉囲以外の所から幾穂かを摘み取り、それを3束にする。そして小屋に持ち帰り、ニボンヤシの葉で編んだ篭に入れて先の七穂の箕のそばに置く〟
 〝パムゴバがこれだけのことを行うと、畑の持ち主たちは一斉に一回目の摘み取りを始める。摘み取った穂は野小屋に運んで脱穀する。脱穀は足で踏みにじって行う。この時には先の3束をまず最初に踏みにじる〟
 〝脱穀した籾は全て、7日間、野小屋に置いておく。七穂の箕を置いた隣の部屋においておく。この7日間の間、夕方には必ず七穂に香油をふりかけ、安息香を焚く〟
 〝6日目には脱穀した籾を少量搗いて、白米にして煮る。その御飯を鉢に入れ、その上に卵の黄身を落とす。これを例の七穂のそばに一晩おいておく。これはこの7日間ずっと七穂を守り続けてくれたオポオポに対するお礼のお供え物だ〟
 〝この7日間が過ぎると、籾は全て村の家に運び、ミブゴ(直径1.5メートル、高さ1.8メートルぐらいの竹製の貯蔵篭)に入れる。ミブゴに入れると七穂はその上に置く〟
 〝ミブゴへの収納が終わると、御飯を炊き、それに卵と3種の海の魚を添えて箕に入れ、畑の見えるベランダにおく。これは稲作を見守ってくれたカミガミや祖霊へのお礼だ。これ以降7日間、こうしておいておく〟
 〝これが終わるともう一度、斉囲に行く。この時にはパラン(山刃)とイイ(篦)を持って行く。斉囲では最初にココヤシ殻の中で安息香を焚き、テロロ・トトアの周りを3回まわす。そしてその煙に山刃をかざす。その後、イイで斉囲の中の稲株を切り取る。そして斉囲の4本の枠の棒を取り去り、最後に中央のテロロ・トトアを引き抜く。これらの全てが終わると、もうこの畑では何をしてもよい。オポオポたちは帰ってしまったからだ〟
 〝オポオポは5人いる。最初のオポオポは播種の時、テロロ・トトアに来てくれた。第二のオポオポは出穂のとき来てくれた。第二のオポオポがテロロ・トトアに来ると、最初のオポオポは畑の柵に移り、そこをめぐってパトロールをしてくれる。穂が黄ばんだ時には第三のオポオポが来てくれる。このオポオポがテロロ・トトアに来ると、先の2人のオポオポが柵をパトロールする。穂摘みの時には2人のオポオポが来る。男と女の2人だ。男のオポオポはテロロ・トトアにつく。すると第三のオポオポは畑と野小屋をつなぐ道に移り、そこを守ってくれる。せっかくの収穫物が悪いやつに横取りされる危険があるからだ。そんなことのないように守ってくれる。女のオポオポは農小屋に入って七穂の到来を待ち、七穂を守ってくれる。このオポオポだけが女で、あとは皆男だ〟
 〝七穂はその年作った稲の母親なのだ。この母稲が健康で機嫌よくしていてくれないと、他の稲はみな粃になってしまう〟
 〝最近では水稲も少し作るが、水稲に対しての儀礼は全くない。畑作でもトウモロコシなどには儀礼はない。儀礼を行うのは魂をもっている陸稲だけだ〟
 以上がムサ・イスマイル氏の話です。全ての村がこれと同じようなことをやっているわけではありません。村によってはずっと簡便、実質的に稲を作っている所もあるし、逆に、もっともっとこみいった儀礼を行っている所もあります。フローレスやスンバワの山地などへ行くと、もっとこみいった儀礼がみられます。
 こうして細部では差があるのですが、それでも焼畑稲作にはどこにでも通底する考え方があります。それは第一には森のカミから1年だけ特定の場所を借りて稲を作るということです。第二は、稲は人間と同じように魂を持っているのだから、そのつもりで用心して付き合わねばならないということです。第三に、自分達の力だけでは稲作はうまくいかない、森に住む精霊やご先祖の助けがあって初めて成功する、という考え方です。こういう考えが基底にあって、いろいろな儀礼が作られているのです。焼畑は私達が知っている水稲耕作などと違って、技術と儀礼が不可分の、一体になっているものなのです。

〈大陸部のこと〉
 右の記述は東南アジアの島嶼部に事例を求めて書いたものです。しかし、大陸部でも話はほぼ同じと考えてよいと、私は考えています。大陸部でも重要な要素は、やはり森、港、稲の三つです。ただ各要素の比重が少し違うということです。この点を少し補っておきましょう。
 大陸部の森も、島嶼部の森と同じように広大に広がっています。大陸部の森はそのまま中国南部の森につながっていて、むしろ、より奥深いという感じがします。ただ、木の種類が少し違います。島嶼部の森は熱帯多雨林と呼ばれていて、常緑の森です。しかし大陸部の森は熱帯モンスーン林で、一部に落葉樹を混じます。乾季になると、一部の木は葉を落とすのです。
 後にもう少し詳しく議論しますが、稲作は中国の長江中・下流域で起源しました。この稲作は谷筋を伝って広がったのですが、これをいち早く受けたのが大陸部の熱帯モンスーン林でした。雨季にだけ雨が降り、乾季には乾きがあるというモンスーン林の生態は、稲作には最適の環境です。人々は乾季に入ると森を伐り倒し、しばらく乾かします。燃えやすくなったところで、雨季直前に火入れをして、そこに播種します。あとは雨季の雨が稲を育てます。乾季になると穂摘みをするというわけです。一年中降雨のある熱帯雨林より稲作には都合が良いのです。このことが直接反映しているのでしょうが、焼畑稲作民の人口密度という点で見てみると、大陸部のほうがはるかに高いのです。
 焼畑儀礼ですが、これも起源は大陸にあると考えられます。ゴロンタロのムサ・イスマイル氏が話してくれたのとほとんど同じことが、つい最近まで大陸部の焼畑でも見られました。焼畑を行う場所の選定に際しては、森のカミの意向を伺うこと、生育中は森の精霊や祖霊の加護を求めること、獣や鳥や虫けらにまで協力を呼びかけること。さらに稲は魂をもっていて、母稲に対しては種々の儀礼を行うこと。皆、島嶼部の場合と同じです。
 この稲作儀礼が大陸部の何処で、いつ頃起源したのか、これは現在のところ不明です。しかし、前1000年紀の中ごろには雲南からベトナム辺りにかけては、すでに存在していたことは確かです。この頃、銅鼓などの青銅器がこの地区から南方に拡散していきますが、その青銅器には稲作儀礼らしいものが描かれているのです。高床の倉庫に穂束を運ぶ人の列、銅鼓を叩いて収穫祭らしいものをしている図もあります。
 空想にしか過ぎませんが、右に見たような稲魂思想や一連の稲作儀礼は、稲作が熱帯モンスーン林に拡散していったとき、その最初からあったのではないかと私は考えています。焼畑耕作のためには森を開きます。暗くて恐ろしい森が周辺にずっと広がっている中で、いわば恐ろしさにおびえながら人々は稲作をするのです。こんな状況の中では、森のカミガミや、祖霊の加護を求め、か弱い稲に仲間意識を持ちながら生きていかざるをえなかったのではないでしょうか。そして、これは鉄器が普及し始める前1000年紀の中ごろに、勢いよく広がっていったのでしょう。
 モンスーン気候の大陸部では稲作はやりやすかったために、盆地や谷筋や、それに低山地帯も、広く稲田になりました。そうした稲作の中心では森はずっと遠くに去っていきます。こうなると森への畏怖も減り、儀礼も簡素化します。代わって出てくるのは治水や利水技術の重視です。大陸部の低地では、こういう現象が12、3世紀から起こり出したのだろうと私は考えています。島嶼部でイスラーム商人たちが森林物産搬出を活発化する頃、大陸部の山間盆地で水稲作を中心にした土候が群立していくのです。
 島の少ない大陸部には島嶼部ほどに港が無数にあるというわけではありません。しかし、ここでも港は大変多くて重要です。インドや中国などと比べると、ここは港の地域だといってもよい程に、港は多いのです。理由は、中国と地中海を結ぶ東西交易路がここを通っていたからです。中部ベトナムの海岸には漢代の港遺跡が点々とあるし、メコンデルタの突端にあるオケオ遺跡もこの頃のものです。さらに、東西交易路はマレー半島を横断していたから、マレー半島にも古くから、いくつもの港がありました。この東西交易路は幹線なのですが、これから支線がいくつも伸びていました。紅河(ベトナム)、メコン河(カンボジア)、チャオプラヤ河(タイ)、イラワジ河(ビルマ)は支線になっていて、大陸部の内部にも交易港は深く入りこんでいたのです。
 ここで面白いことは、こうした港のいくつかは、島嶼部の人たち、すなわち後にマレー人といわれることになる人たちによって経営されていたことです。例えば中部ベトナムの海岸の港は、3世紀にはヒンドゥ教を奉じていたチャンパによって経営されていました。彼らは東西交易の中継港を作っていただけでなく、広く土地の物産、特に安南山地の沈香の搬出なども行っていたようです。チャンパの作ったヒンドゥ寺院の遺跡は今もいくつもこの地域に見られます。メコンデルタのオケオ遺跡も同じです。ここの港からはサンスクリットで書かれた荷札やヒンドゥの神像、仏像、漢の鏡、それにローマコインなどが出土しています。こうして見ると、東南アジアは大陸部も含めて広く貿易に関わり、そのための港は多かったということになります。おそらく当時だと、世界の最先端をいく国際的な都市でもあったに違いありません。

第3章 日本の風土

 ヨーロッパからの帰りだったと思いますが、飛行機が本州の上に来て、下の様子が見えるようになったとき、〝ここは森の島だ!〟とつくづく思いました。海岸線が見事に続いています。島国です。そして、その島が森で覆われているのです。前日見たインドの木のない土地とはまるで違うし、ヨーロッパの牧場にも似た風景とも全く違う。全体が深い森で覆われているのです。飛行機が高度を下げる頃には、盆地に水田が広がるのも見えました。日本は森と海と盆地の世界だとつくづく思わされました。

[1]日本の森

 春日曼荼羅というのがあります。普通、縦長の絵になっていて、神体山の御蓋山が描いてあり、その中腹から麓にかけて春日神社と興福寺が描いてあります。もっと下方には奈良の家並みなどの描いてあることもあります。御蓋山の上にはお浄土を描いたものもあります。私達日本人の地形把握、空間認識というのは、大体こんなものが普通なのではないでしょうか。深い森に覆われた神域があり、その下方には社や寺がある丘がある。私達はさらにその下の低みの里に住んで、水田を作っている。仮にこの三つを奥山、里山、里に分けて少し考えてみたいと思います。

〈雑多のカミガミのおられる里山〉

 奥山、里山、里と並べてみると、里山は雑多の神々のおられる場といってもよいのではないでしょうか。奥山はお浄土にも近い所です。崇高な大神がおられる感じです。一方、里は極端に言えば、神なき里です。それに対して里山には色々のカミガミがいらっしゃいます。
 私の住む滋賀県の場合で見ると、里山が典型的に開けるのは甲賀丘陵です。丘陵が続き、その間には谷地田が入り込んでいます。神社には本殿と拝殿を備え、立派な鳥居のあるものもあるのですが、それ以外に至る所にカミさまがおられます。例えば林の中に細く入り込んだ谷地田の脇にお稲荷さんがおられます。谷地頭には時に溜池が作ってあり、弁財天の祠のあることがあります。甲賀で多いのは金比羅さんです。これは甲賀杣が盛んだった時に川を守る神様として祭られたのでしょうか。その他に地蔵さんやいわれの知られない石柱などが本当にたくさんあります。これらのものは多くは集落の近くや谷地田にあるのですが、一歩、林の中に入ると
 
図18 甲賀丘陵の山の神(嶋田奈穂子撮影)
山の神さんがおられます。暗い林の中に御幣の白い紙が垂らされていたりするのを見ると、一瞬ギクリとさせられます(図18)。
 氏神社をはじめとして多くの社や祠は、どちらかというと集落形成や水稲耕作といった人為的なもの、あるいは人間臭を感じさせるのですが、山の神の方は違います。森の霊のようなものを強く感じさせられるのです。甲賀でよく見るものは二股になった木と棒状の木が暗がりに供えてあるものです。植田文雄(『縄文人の近江学』サンライズ出版社、2000年)は、これらのものは縄文時代に起源をもつものではないか、ということをいっています。もともとは山の神(女神)を喜ばせるために男根を供えたのだが、弥生時代に入ってからは耕作が最大の関心事となり、〝ものを「産む」行為そのものに神聖さを観〟るようになったのだろう、といっています。たぶん、そうなのでしょう。里山には縄文時代に始まる原始的な森のカミから、先祖神やお地蔵さんまでいろいろのカミガミがおられるのです。
 少し横道にそれますが、ここで私自身が甲賀の丘陵で経験したことを述べておきましょう。博士論文のための地質調査をしていたとき、私は柑子という集落の魚屋さんに下宿して歩き回っていました。その日も弁当を広げて昼食をとり出しました。すると、松林の中をサッと白いものが駆け抜けたのです。姿は確認できませんでした。しかし、私は〝狐だ!〟と思いました。
 その日、下宿に帰って主人に〝今日、山で狐を見た。〟といいました。途端に主人の顔が強張って、〝何時や?〟といいました。〝昼飯食ってる時でした〟というと主人の顔は一層強張りました。しばらくして主人が説明したのはこういうことでした。彼はお稲荷さんを信仰しているのだが、忙しさにまぎれて、ちゃんとお供えなどしたことがない。ところがその日は妙に気になってお供え物をした。お前が狐を見た、ちょうどその時にお供えをしていた、というのです。
 これも同じ甲賀の丘陵で経験したことです。その時は夜も下宿に帰らずに丘陵を歩き回っていました。長時間人と話さないと唇が閉じてしまって開けにくくなるな、などと考えながら松林から谷地田に出てきました。刈り入れが終わった時期で、脱穀を終わった藁屑の小さな山がチョロチョロと燃えていました。あぁ、もう里だと思って火に近づいた途端に、私は奇妙な状態になりました。その小さな火が何とも言えずきれいなものに見えたのです。こんな美しいものは今まで見たことがない、と思いました。と同時に何とも言えない恐怖を覚えました。そして、実に不思議なことですが、〝俺は狼になった〟と思ったのです。この感覚は数分ももたなかったように思います。でも、こんなことが起こったのです。
 ことほど左様に里山は、私のような里住みの人間にとっては、カミガミがいたる所におられる、いわばおどろおどろしい空間なのです。

〈私の奥山〉
 春日曼荼羅に示されている神体山の部分、神のいます奥山というのは厳格な意味ではもうないのかも知れません。人間どもが歩き回り、汚してしまったからです。しかし見方を変えれば、まだいたる所にあるというふうにもいえそうです。
 私は学生時代、山ばかり歩いていました。その頃から、山には2種類ある、と常に感じていました。おどろおどろしい低山と清浄な高山という二つです。低山では、歩いていて、成仏できなくて彷徨っている霊や化け物のようなものを感じて、たまらなく恐ろしくなるのです。一方、高山では不思議とそういうおどろおどろしいものは感じません。
 山岳部をやっていた頃に経験したことを書いておきましょう。日本アルプスでヒマラヤ登山の練習をしていた時の話です。明朝はいよいよ登頂ということで、私はパートナーと2人で第7キャンプで休息をしていました。まだ夕暮前で明るかったのですが、ウトウトしてしまったようです。急にテントの中が七色の光でいっぱいになりました。天国にいるのだな、と思いました。続いて夢を見ました。アルプスの陵線に石のベンチが置いてあって、私はそこに横たえられているのです。遠くの峰々の連なりが、雲の上に浮かんで見えていました。素晴らしい景色でした。目を開けると、そこに父と弟の顔がありました。私を覗き込んでいるのです。私は、何故こんな所にシッダルタがいるの、と思いました。父の目はシッダルタの目だったのです。悲しげな目でした。ジッとその目を見つめていると、一陣の風が吹いてきて、私の体が石のベンチから吹き飛ばされました。カランカランと音をたてて、自分の体が陵線を転がっているのを感じていました。夢はこれだけです。
 翌朝早く、酒井と私の2人は登頂に成功しました。しかし、帰路に遭難しました。雪崩に巻き込まれて滑落したのです。氷壁をよじ登って元の所に戻るのに2晩のビバークをしました。そしてこの2晩のビバークの間に同じ夢を何十回も見たのです。私と酒井が体をくっ付け合って岩陰で助けを待っていると、高村が助けに来るのです。しかし、その高村も寒いものだから、体をくっ付けてきます。ここは2人しか居る場所がないのだ、というと高村は消えるのです。だが、しばらくするとまたやって来る。そんな夢を何十回も見たのです。この夢も、それに風に飛ばされてカランカランと転がった夢も、共に何とも澄明な夢でした。
 この夢一つぐらいで結論を下すのは早計過ぎるのかも知れませんが、印象が強烈で鮮明だっただけに、私の奥山観はこれ以後すっかり定着してしまったのです。それは一口で言うと、ここには良い神がいらっしゃる澄明な空間だということです。奥山にはおどろおどろしいカミガミと違って透き通った神がいらっしゃる。そんな神が居ます場だから、それなりにこちらも行動を慎まなければならない。と、そんなふうに考えるようになってしまったのです。

〈アイヌの奥山〉
 藤村久和(『アイヌ・神々と生きる人々』福武書店、1985)によるとアイヌの人達はやはり山を二つに分けるようです。「人の里」と「神の里」の二つに分けるのだそうです。「人の里」というのは普段人々が生活のために立ち入る所です。一方、「神の里」は神の居場所として立ち入らない所のようです。
 ところで、アイヌの人達のいう神というのは、いわゆる神とは少し違うようです。人間の力ではコントロールできないもの、それが彼らの言う神のようです。雨や風などの自然現象は神です。山川や巨木、猛獣や毒蛇、毒草も神だそうです。こういうものにはうかつに近づくとひどい目にあう。だから聖域を作っておいてそこに居てもらう。人はそこには近づかない。これが神の里だそうです。
 本当の神がいるかどうかは分からないにしても、自分達の力を超越したものがある所、という捉え方はありうるのだと思います。だから万一近づかねばならないようなことが起こった場合には、よほど心して近づくわけです。例えば、時に熊狩に行かねばならなくなる。すると彼らは熊狩に行くのですが、〝行く〟とはいわない。〝お迎えに行く〟というようです。何故ならそこは神の領域で、熊は神そのものだからです。常日頃の行動ではなく、お迎えの儀式として行くのだそうです。
 アイヌの人達は「神の里」に対しては、もう一つのイメージを持っているようです。神との交渉が可能な場、そんなイメージです。彼らは熊を捕りに行きます。肉や毛皮のためです。しかし、同時にこれは神との交渉のためでもあるようなのです。熊は殺されると、その魂は神の里へ帰って行きます。帰って行って、また仲間の熊たちと生活します。そんな時、「人の里」の話もするそうです。殺されて解体された時、猟師はどんなに丁寧に体を取り扱ったか、また、どんなにたくさんの供え物をして、送り返してくれたか。そんな話をするようです。話を聞いた熊の仲間は、そんなに良い猟師なら、今度は自分もその人に捕らえられたい、とそんなふうになるらしいのです。アラスカのユピックの膀胱祭と似たような話です。このように、アイヌの神の里は、私が自分で感じている奥山よりもう少し内容がしっかりしています。そこには神である熊が住んでいる、そしてその熊の魂そのものは不滅で、人の里と神の里を往還している。そしてその往還に人々は関わっている。というのがアイヌの人達の奥山観念のようなのです。
 奥山は何か?神の居場所と定義し、近代科学のセンスでその範囲を探してみると、奥山はもう今日ではない、ということになるのでしょう。しかし、現実に春日曼荼羅を見ると、ああ、あのお宮の上の山が奥山だと思うし、また比良山脈の峯を見てもあれは奥山だと、私達は思わせられるのです。現実にそこは、冬にはべったり雪に覆われるし、いかにも神々しい感じがする。それに第一、そこに登ろうとする時には、〝身を清めねば罰が当る〟などと思わせられます。そう思わせる力がそこにあること、これが神がおられることの証拠ではないか、と私は思っています。

〈孤立峰〉
 森を述べるときには奥山・里山に加えて、孤立峰のことを述べておいた方がよいかと思います。これは文字通り、水田地帯の中に孤立していたり、時には里山中にひときわ高い峰として突出していることもあります。目立ちますから、格好のランドマークになるわけですが、それ以上に神の依代などと考えられるのです。近江盆地の中にはこんな孤立峰が数十個あります。
 最も典型的なものは三上山でしょう。野洲川デルタの扇頂部に孤立している見事な円錐形の山です。平野からの高さは200メートルほどしかないのですが、その端麗な富士山に似た姿のために、近江富士とも呼ばれています。
 
図19 注連縄を作った近江湖東の集落
山頂には小さい祠が作られていて、そのすぐ脇にある巨岩には太い注連縄がまかれています(図19)。
 神社の『由来記』では、孝霊天皇6年山頂に天之御影神が御降臨になったとなっています。この神は火の神、かまどの神です。この神の娘神が水の神、雨の神です。この2柱の神が出現なされてから、野洲川デルタでは稲作を始めることが出来るようになり、人が増えていったと言うのです。
 現在の御上神社は山麓にあるのですが、これは養老2年(718年)に造られたものだそうです。勅令があって、山麓に拝殿が造られたのですが、それが後に本殿になり、山頂の注連縄のある盤座は奥宮になったということです。今はほとんどの人が、山頂には眺めを楽しむために登り、お宮参りは麓の御上神社にするのですが、氏子たちは今でも天之御影神の御降臨があった6月18日には岩座まで登ってお祭りをするのだといいます。
 私の勤める彦根の大学の近くにも荒神山という孤立峰があって、ここにも山頂に神社があります。祭神は主座の火の神と、別に2柱のかまどの神様です。創建はやはり神代の昔ですが、整備されたのは天智天皇の頃だとされています。その後、行基菩薩がこの周辺で四十九院を建てられた折、この荒神山に登られ、ここにお堂を建てられ、四十九院の奥の院にされたといわれています。
 この荒神山からは4、5年前、山頂で巨大な古墳が発見されました。発見者の高橋美久二氏(故人)はこの地方を治めた首長の墓だろうと言っています。古墳といえば、三上山 と荒神山のちょうど中間に雪野山というのがあって、やはりその頂上からきわめて豪華な副葬品をもった古墳が発見されました。発掘者はこの地方の首長の墓だとしています。平野が開かれ始めたこの頃、人々は自分達の首長を近くの孤立峰に埋め、自分達の守護神としたようです。
 孤立峰はこのようにして神の依代であったり、首長の墓所であったりしたようです。こういうものを中心にして、地域はまとまりを作っていったようです。三上山を仰ぎ見た人達は、安氏としてまとまりを作り、荒神山には犬上氏が、そして雪野山には羽田氏が生まれ出たらしいのです。これらの孤立峰はいずれも、おそらくは縄文時代から意識され、崇められていたのでしょう。
 
図20 金勝山から望んだ三上山。安土優描く(安土優・高谷好一 2004『二人の湖国』 p102より)
  それが遅くとも古墳時代には地域の核として意味を持ってくるのです。もっと後になって現れるものもいくつもあるようです。例えば、湖南では金勝山や飯道山がそれにあたります。これらの山は平安時代にはいくつもの神社や寺が建てられ修行の場として栄えたようです。建物こそなくなってしまいましたが、飯道山など、今でも毎年5月には護摩が焚かれ、人々が集まります。
 近江の山々はこうして見ると3種類の山として存在しているようです。県境をなす奥山、その前面に広がる里山、そして、それに近接して点在している孤立峰の3種類です。奥山も里山も孤立峰もカミガミがいますことは、みな同じです。そして、そうしたカミガミのいます山々に取り囲まれて平野と湖があるのです(図20)。


[2]平野の地縁型社会

 アラスカ、東南アジアと比較して日本の大きな特徴の一つは地縁型社会が大変高度に発達していることでしょう。これは典型的には平野の水田地帯に発達しています。私自身、その地縁社会の一員なのですが、私の字の場合、それはどんな具合になっているのか、少し見てみたいと思います。

〈稲作適地の盆地〉
 私の住む近江盆地だと、一番大事な単位は集落で、それをアザと呼んでいます。日本の平野は字社会からなっている、といってもよいのではないでしょうか。
 字にはいろいろの組織があり、それがみなしっかりと機能していますから、人々の生活はいわばがんじがらめになっています。まず字の自治会があります。その下には隣組があって、これが自治会の意向を受け、よく機能しています。例えば、ムラナカのゴミ拾いなども隣組単位できちんと行います。赤い羽根募金や小中学校などの諸活動への寄付なども非常に能率よく行われます。隣組で組織的にやるからです。秋の懇親会などにも、ほぼ全員が参加します。
 こういう字は一つだけでぽつんとあるのではありません。何百ものこうした字が近江平野にはびっしりと並んでいます。何故こういうことが起こっているのかというと、盆地は稲作適地だからです。山からいくつもの川が流れ出ていて、稲作に最も必要な水が得られるからです。その水を、灌漑水路を作って田にもってくると、灌漑をしない場合の何倍もの米がとれます。だから皆必死になって灌漑施設を作り、この平野を豊かな水田地帯にしました。
 しかし、灌漑施設の建設は1人ではできません。多くの人が協力してやらねばなりません。近江平野では遅くとも江戸時代になると、野洲川や愛知川、犬上川などにはいくつもの井堰を造って水を引きました。川幅は50メートル、時に100メートルを越しますが、そこに土俵を積んで水を堰き止め、それを水路で田に導いたのです。こんな川を堰き止めるとなると、一つの字全体でかかっても無理です。しばしば数個の字、時には十数ヵ字が共同して当りました。こうした字々は井郷というものを作って共同で一つの井堰を建設したのです。水路に入った水は各字に分配し、それをまた各家に分配したのです。
 井郷は大変しっかりした組織をもっていました。井郷頭の命令で、決められた日に井郷の全員が井堰の修理、幹線水路の補修に集まりました。支線は字の管理に委ねられるのですが、こちらの方はまた、字の水利頭の命令で、全員で仕事をしました。どんな理由であれ、この仕事を逃れることは出来ませんでした。灌漑施設の建設、維持は本当に大事な仕事であったし、そのために全員で力を合わせるということは至上命令だったのです。
 建設のための共同作業は、絶対に必要なことだったのですが、それと同時に、どのように水を分配するのかということも大変重要なことでした。幹線水路に取り入れた水は、次には各字に配るための支線水路に分け入れなければなりません。どの字も、少しでも多く欲しいわけですから、奪い合いが起こります。時にはひどい争いになることもありました。そんなことが起こってはならないから、配水に関しては厳密な規約が作られ、どの字もそれを遵守するようにお互いに監視し合いました。いわゆる水利慣行が作られ、それが何にもまして重視される社会が出来たわけです。
 少しでも米を多くとるためには協力して施設を作ることが必要だということで、堤防を嵩上げし、水路を掘ってきたわけです。この結果、天井川の出現ということにもなりました。そしてここから水防のための作業や組織をも必要とするようになりました。私の字を流れる野洲川の場合だと繰り返した堤防の嵩上げの結果、川床は田面よりも2メートルほども高くなりました。こうなると、梅雨時や台風時には大変です。一旦決壊したら大変なことになるからです。だから、今度は全員で堤防に出て水防作業に一丸となるのです。
 米を少しでも多く取りたい、そのためには組織を作って土地を改良しようという動きが、結果的には雪だるま式に必要な作業を増やしてしまったのです。盆地の近江は米作に適していてコメドコロと言われてきました。それはその通りなのですが、その内側にはこういう歴史の蓄積がぎっしりと詰まっているのです。

〈協力と対立〉
 稲作農民は水利を軸に強力な組織を作っていくのですが、それは決して皆が仲良く力を合わせるというようなものだけではありません。そこには同時に鋭い対立もあります。協力と対立が混在していて、それでもって結果的には組織が強化されていく、それが稲作社会の特徴です。稲作農民たちは巧みな共存の知恵と忍耐力を築き上げてきたといわねばなりません。
 何故こういうことになるのか、ある川に沿って、上流からa、b、cの字があるとします。私は字bに所属しています。私達は字bの取水口を開いて水を得ています。上流には字aの取水口が、下流には字cの取水口があります。
 私は何とかして自分達の水路に、より多くの水を引き入れるために字の一員としてがんばります。最大の敵は字aです。彼らは限られた量しかない水路の水をなるだけ多く自分達の字に取り込もうとして違法なことさえしかねません。例えば自分達の取水口の幅を広げたりします。そんなことをされては困るので、私達の字からは監視役を立てて見張ります。cもまた敵です。渇水で稲が死にかけている時、背に腹は変えられぬということで私達がほんのしばらく取水口を広げようとでもすると、大挙して攻めてきます。私達の字は字aに対しては監視の目をゆるめず、字cに対しては彼らの目をごまかして取水量を増やさねばならないのです。このために、私達字bの全員は打って一丸となるのです。いざという時には鍬や竹やりを用意して攻め入る覚悟さえしなければならないのです。
 水が字内の水路に入ってからも問題はあります。私は隣の家と敵対関係にならざるをえないのです。私の字などでは、よくこんな話を聞きました。〝夜、水を盗もうと思って出かけていくと、他人の足音がする。急いで草陰に身を潜めていると、その影は案の定、取水口のところへ行って何か細工をしている。その影が立ち去るのを見届けてから今度はこっちが細工のし直しをする〟。土くれの2、3個を落とし込んだり取り去ったりすれば、堰き止めたり放水したり出来るような小さな字内の水路では、細工は簡単です。でも、そんなことをされると大変です。ぎりぎりの水しかないのですから、まさに死活の問題になります。でも、相手がいつも顔付き合わせる隣人となれば、むやみに暴力沙汰にするわけにもいきません。笑顔を保ちながらも相手を牽制する技術が必要になってくるわけです。
 江戸時代の村請制の時や、太平洋戦争の供出の時は大変でした。何があっても字としては割り当てられた量は出さねばならない。仮に、病人が出たりしても、その分は他の人達がカバーしなければならないのです。だから庄屋や区長などは、皆で力を合わせることを力説し、怠け者が出ることを極力阻止しました。村人も事態を把握しているから、相互監視を怠りませんでした。敵対と協調の網の目が、それはそれは密に張り巡らされていたのです。

[3]平野の中にいるカミ

 水田地帯には森などほとんどありませんし、カミなどあまりいそうにありません。わずかに鎮守の杜がポツン、ポツンとあるだけです。しかし、それでもカミらしいものは探してみると随所にいます。そのことを見てみたいと思います。

〈氏神社〉
 先にも見たように字々はみな氏神とその社を持っています。どの集落でも草分けが自分達の一族の守り神を抱えてやってきたようなのです。最初の入植者たちがそのまま今日まで続いているとはとうてい考えられないのですが、とにかく、開村の由来を伝えている氏神社が多くの字にあります。 私の字開発の場合だと己爾乃神社というのがあって、由来記には次のようにあります。この地は平安初期に伊香正厚によって速野庄開発として開かれた。その子の厚武が天兒屋根命と伊香津臣命を祭神として創建した。天兒屋根命は記紀神話の頃から名の見える宮廷祭祀を司る神です。伊香津臣命は伊香津氏族の祖です。要するに伊香津氏の人たちがここにやって来て、氏神を祭り、土地を開いたようなのです。
こうした神社は今ではほんの小さい森しか残していないので、ほとんど聖域という感じはしないのですが、それでもさすがにお祭りの時には普段とは違った顔を現します。祭壇が整えられ、御幣が埀らされ、神主がうやうやしく祝詞を唱えると雰囲気が変わってくるのです。独特の口調で唱えられ、サッ!と榊で払われると本当にそこに神様が現れるような気がいたします。
 小正月の左義長の時にはこの氏神社の境内で大きな火を燃やします。夏には盆踊りがあります。昔は真夜中までやっていました。一部の人達はこんな時、神がかりになっていたような気がいたします。己爾乃神社では字の全員回り持ちで、毎晩、お燈明をあげるのです。参道の両側に並んだ15、6の灯籠に小さい蝋燭を立てて回るのです。1人でやると、これがなかなか恐ろしい。何か神霊の存在のようなものを感じさせられて、緊張するのです。
 その氏神のお札をどの家も神棚に飾っています。家内に死者が出ると、一番最初にすることは神棚を半紙で覆うことです。神様は死の穢れを嫌われると、私達は考えるからです。こうして屋敷そのものが氏神とつながっています。そのことをはっきり経験したことがあります。私は1994年、古い家を壊して今の家を建てたのですが、その時の地鎮祭でそれを知りました。
 大工の棟梁が葉つきの竹を四隅に立て、それを結んで縄を張り、御幣を吊り下げました。隣の字から神主さんが来て、祭壇を作ってくれました。台を置き、そこの中央に榊を、そしてその前にお供え物を並べました。お供え物の中心はお酒でした。他に塩、米、昆布、するめ、大根、人参、りんご、バナナでした。そしてその前にスコップを置きました。スコップの前には左に剣、右に鏡と勾玉が置かれ、さらにその前に白い砂が盛られ、上に草が植えられていました。こうして舞台が整うと、私を中央に棟梁と私の妻が立たされ、式が始まりました。
 まず、塩と米が撒かれ、続いて神主の祝詞が始まりました。神の御降臨をお願いしているようでした。そして、タカヤヨシカズなる者が家を建てたいと願っているからお許しをいただきたい、と言っているようでした。私の名がはっきりと聞き取れました。これが終わると私達3人は置いてあるスコップで砂を崩しました。まず施主の私が左に、次に妻が右に、棟梁が左に崩しました。これが式の核心だったようです。これが終わると3人は供えしてあったお神酒をいただきました。残ったものを神主は四隅に注ぎ、最後に古い家の便所跡に注ぎました。式はこれで終わりました。極めて簡単なものでした。
 神主さんの説明によると、この時の砂は野洲川から持ってきたものでしたが、これは便法で本来は氏神社の砂を持ってきて砂山を作るべきであった、ということです。地鎮祭の主旨は、荒地を開いて家を建てるということだが、その時、まず氏神、火の神、雨の神に来ていただき御許可をいただく、ということだそうです。砂の上に植えてある草は藪や林だそうです。許可を得た後にそれを鎌や鍬で伐り開き、平らにして家を建てる、ということだそうです。式が終わると棟梁は直ちに砂を辺り一面に撒き広げ、そこに基礎の工事を始めました。

〈最近までいた小さいカミガミ〉
 由来の分からない小さいカミガミは、私の屋敷の中にもおられます。例えば、私の家でオジゾウサンと呼んでいるのがそれです。小さい祠を作っていて、毎日御飯を供えます。亡くなった母はよく、このオジゾウサンはお若いお方で短気だから、怒られると恐ろしい、と言っていました。その祠の中には別に小さい穴があって、そこからはミイサンが出てこられるのだと言っていました。私自身は穴を確認していないのですが、母は若い頃、白いミイサンがそこから出てこられるのを何度か見たと言っていました。家の守り神だったようです。
 この祠の横は1坪ほどの茂みになっていて、そこには石塔の一部らしいものが四つほどあります。ここには何もお供えしたりしないのですが、いつも気にかかる所です。私の字ではこんな話があります。似たような石を庭の置物にということで、他の所から持ち帰っておいたところ、その家では病人が絶えなくなった、それでお払いをしてもらって元の所に返しにいった。こんな話があるので、私は気持ちが悪いのです。
 一見何もないように見える平野の集落にも、こういうものは少なからずあるのです。開村当時はもっと多かったのでしょう。無数といってよいほどのカミガミが、ここにもおられたのではないでしょうか。それが開発と共に移転、合祀され、あるいは忘れられたのではないでしょうか。
 小さなカミガミがこのまま平野の集落から消えてしまうのか、それともいくつかは生きながらえるのか、今の私には分かりません。新しい団地などにはもうほとんどそういうものはありません。残っているのは古くからある集落だけです。しかし、その古い集落も、道路の付け替えや新しいゲートボール場の建設などでどんどん変わってきています。
 カミガミが生き残るのかどうかは、本当に微妙な問題です。先に述べたように氏神社などはまだしっかりしています。でも皮肉なことに、それは地縁社会がしっかりしているからこそ、それに助けられてまだちゃんとしている、という節もないではないのです。私の字などでは、氏神のお札やお守りを、ほとんどの家は購入します。でも、〝自治会から来るのやから、仕方がないわな、断れないがな〟という声も聞こえます。でも、本当にそうなのかというと、そうでもなさそうなのです。そう言っていたご本人が、〝息子や娘の分も入れて四つお守り買うたんや。事故でも起こされたら大変やからな〟といいます。交通安全のお守りです。そして、その年寄りがまた、〝川にオシッコしたらあかん!おチンチン腫れてしまうぞ!〟と孫を叱っています。

[4]日本と海

 島国の日本にはあらゆる意味で海が深く関わっています。特に黒潮の影響が絶大なようです。随所でそういう風景が見られるし、また神話を見てみても、そんなことを強く感じさせられます。

〈黒潮に洗われる海岸〉
 黒潮に洗われる沿岸の風景の一つの典型は熊野の海岸にあるのではないかと思います。古座、熊野、九鬼、大王崎、伊雑宮へ行くと、そのことを強く感じます。  古座は潮岬と、鯨で有名な太地の中間にある町です。私はここの絶壁から眺める太平洋が好きでよく訪れました。もう20年も前のことになりますが、土地の教育長をしておられた山出さんが話して下さいました。
 〝私らは海の男の誇りを持っている。内陸の人には出来ないことをやる実力を持っているからや。昔は古座の大事な仕事は抜荷やった。幕府の船が年貢米を積んで行くやろ。役人を巻き込んで難船ということにして、米を横取りすることやった。本当の難船も何回もあった。何せここは難所やから、しける時によく船が難破した。そんな時、鯨舟を出して積荷を取りに行く。もちろん法律では禁止されている。周りの百姓も少し海が凪いでから舟を出していった。そして、お縄や。その頃は役人の舟も出て行くからや。私らはその頃はもう一仕事終わって、涼しい顔やった。私らは、そりゃ何といっても海のプロやからね〟
 山出さんは他にもいろいろの事をはなしてくれました。〝ここには伊豆に親戚のある人が多い。昔から、あの辺りまではしょっちゅう出かけていたから〟〝小学生の同級生で今、南洋で酋長になっているのがいる〟
 熊野灘に面した海岸地帯は本当に黒潮を直接感じさせる所です。山出さんの話はみな現実味を帯びていました。
 古座から25キロメートル程東に行ったところに新宮があります。これは古座に比べるとはるかに戦略的な拠点です。巨大な熊野川の河口にあるからです。この川を伝って内陸に入ることができるし、この川を通じて材木など多くの物産を集積することが出来るからです。実際、ここは縄文時代の昔から人々が住み続けたようです。ここには、熊野三山があります。この大社の主神はイザナギノミコトとイザナミノミコトです。2人で海から次々に島々を釣り上げて、日本列島を作り上げた国生みのカミです。このカミを奉じた海民たちが、この戦略的拠点を占拠し、ここを中心に、いろいろの外来文化を混合させて今に到っているのが現在の新宮だといわれています。
 新宮から更に東行すると熊野市に着きます。ここはまた大変面白い所です。熊野の海岸には珍しく、小さい水田のある所ですが、ここには産田神社、津ノ森遺跡、花の窟神社の3点セットがあって、神代の海民の生活を彷彿とさせるのです(図21)。産田神社はイザナミノミコトがカグツチノカミを生んだと言われる所です。この産田神社のすぐ前に津ノ森遺跡があります。イザナミノミコトを支えた人たちの集落だと言われています。津ノ森遺跡は弥生中期からの集落跡で当時は稲も作っていたといいます。
 
図21 花の窟 (小学館 1982 『探訪神々のふる里(4)熊野から伊勢へ』p19 より)
 産田神社より1キロメートルほど東に花の窟神社があります。これは海岸に突き出た巨大な岩峰の直下にある神社で、イザナミノミコトが葬られた地だとされています。『日本書紀』には「伊弉冉尊 火の神を生み給ふ時 灼かれて神さりましぬ かれ 紀伊国熊野の有馬の村に葬しまつる」とあって、その地らしいのです。海に面して高さ70メートルの石英粗面岩の絶壁が突っ立っていて、その直下なのです。大昔から海民たちが葬送の場として使っていたのではないかとされています。今も「花の窟のお綱かけ神事」というのが行われていますが、この時には絶壁の頂上から海側に立てられた大柱に縄を張り、それを幡や花で飾って祀るのです。
 熊野市と尾鷲市の間は、熊野の海岸の中でもある意味では最も海域的な所です。ここは入江と岬がそれは複雑に絡み合っています。国道311号はその海岸を通るのですが、直線距離の5倍は走らねばなりません。それほどうねって行く所です。昔だったら船でしか行けなかった所に違いありません。そこでは海民の生活はかくあるべしという姿が、今でもよく見られます。小さい港がいくつもあるのですが、その中で最も典型的なものは九木浦でしょう。中世九鬼水軍の本拠地であった所です。袋状に深く入りこんだ入江の奥には家がびっしりと並び、湾内には何百という船が舫っています。これらが船団を組んで出動した時にはそれはすごいものだったろうと思わせられる佇まいです。入江に入る咽喉部の高みには九木神社があります。
 尾鷲市からずっと東に行くと、志摩半島の東端に到るのですが、この部分がまた大変面白いのです。ここには南島の要素がいくつも見られます。まず、岬に当る大王崎ですが、ここは太平洋に突き出た絶壁のすごい所です。昔、九木浦から出てきた九鬼隆良が波切城を造った所です。そのすぐ隣に波切神社というのがあります。ここの「わらじ曳き祭」というのが大変面白いのです。これはこんないわれがあって作られた祭なのです。かつてこの辺りにはダンダラボウシという一つ目、片足の巨人が現れて人々を苦しめた。それを追っ払うために巨大なわらじを作ったというのです。ここにはこんな大男がいるぞ、近寄ったらひどい目に合うぞ、ということです。これと全く同じ祭は沖縄にもあります。南島の文化が直接ここに入ってきているのでしょう。
 大王崎のすぐ北には的矢湾の湾入があります。その湾奥に伊雑宮があります。ここは鶴の穂落し伝説で有名な所です。ヤマトヒメがこの辺りに巡幸なさった時、葦原の中で鶴が激しく鳴いているのを聞かれた。人をやって見させられると、稲の穂をくわえていた。こうしてこの地に初めて稲がもたらされた、というのです。この話は沖縄の知念にある鶴の穂落し伝説と全く同じものです。
 伊雑宮はまた、泥んこになって青竹を奪い合う、御田植祭でも有名な所です。この所作に私は、これは東南アジアの踏耕と関係がある、と思わせられました。東南アジアでは鋤や鍬を用いないで、水牛や人間が田を踏んで代掻きをするのです。先の穂落しと、この御田植祭は、両者とも黒潮を通じて南方につながっているもののように思えてならないのです。
 そもそもが、志摩のこの辺りは常緑の森に覆われた急な山が多く、稲作には不適な所なのです。むしろ、全体は海民の空間なのです。そんな所にこの異様とも思える稲起源の伝承と御田植祭があるのです。ちなみに付け加えると、御田植えの後、この青竹は切り分けられ、漁師達が船霊に奉るのだそうです。そして人々は、〝磯部伊雑宮は竜宮様よ、八重の汐路をサメがくる〟と歌いながら、伊雑宮まで行くのだそうです(谷川健一、1976『黒潮の民俗学』筑摩書房、40〜41頁)  もう一つ付け加えると、土地では伊勢神宮は伊雑宮から移っていったものだ、と考えられているのだそうです。「むかし、ヤマトヒメがアマテラス大神の鎮座地を求めて諸国を巡幸していたときに、夢枕にアマテラスがたって〝明朝はやく7本のサメがこの沖をとおるから、ゆきついたところによい宮所があるだろう〟という託宜をした。ヤマトヒメはそのお告げのとおりを実行して伊雑宮にアマテラスを祀った」(前掲書、37頁)ということだそうです。
 伊雑宮と伊勢神宮は直線距離で10キロメートルほどしか離れていません。しかし、その立地はだいぶ違います。志摩半島の脊陵山脈の南は深い常緑の森で覆われていて、黒く、ちょっと恐ろしげな所です。一方、山の北は明るい松林になっていて、前面には広く水田地帯が広がっています。伊勢は平野の優先する盆地型の空間だ、という感じがするのです。こうして、伊勢と対比してみると、ここ熊野灘側には全く対照的な黒い森と荒い磯の空間がある。そして、そこには南島に通じていきそうな要素が点々とある。と、こんなふうに強く思わせられるのです。

〈日本の神話〉
 日本の神話の中でポピュラーなものをいくつか取り上げて、ざっと見てみたいと思います。海に関係したものが、ずいぶんと多い気がするのです。

■国生み神話
 イザナギノミコトとイザナミノミコトはオノゴロジマに天下られると、そこで日本の島々を生みます。最初はうまくいかなくて、首のないヒルコと淡島を生みます。ヒルコは葦舟に乗せて流しました。しかし次からは成功して淡路島以下、いわゆる大八島国をお生みになります。そしてその後、吉備児島、小豆島、大島、女島(大分県)、知訶島(五島列島)、西児島(男女群島)を生みます。要するに海の中から、島々を生んだのです。実に海民的な発想です。この国生み神話は実際には淡路島を中心に活躍していた海民の神話だったのだろうといわれています。海から島を釣り上げるという話、しかも最初は失敗するという話は東南アジアからポリネシアにかけては広く分布するそうです。

■作物起源神話
 作物の起源に関しては3種類のものがあります。天からもたらされたというもの、海からもたらされたというもの、死体から生え出たというものです。
 天からもたらされたという話の代表は、天照大神が天忍穂耳尊に託して地上に稲をもたらされたというものです。これは天孫降臨と同じ流れの中で語られるもので、いわゆる大陸系の考えなのでしょう。韓半島から大陸に行くと粟のような穀物が天からもたらされたという話は多くあります。
 これに対して、穀物が海からもたらされたという話は済州島から琉球を経て東南アジアに広く分布しています。その代表は沖縄で多く語られるもので、ニライカナイからもたらされたというものです。
 ちょっと変わったものは死体から生まれ出たというものでしょう。日本書紀ではツクヨノカミに殺されたウケモチノカミの体から、古事記ではスサノオに殺されたオオゲツヒメの体から五穀などが生まれ出たとあります。あの話です。これも東南アジアには広く知られている話です。例えば、私がフローレスの山地に住む農民から聞いた話はこんなことでした。
 昔、沖合いに大きな船が着いた。一人の男が娘を連れて船を見に行くと招き入れられて、大変美味しいものを食べさせてもらった。しばらくするとまたその船が現れた。娘がもう一度あの船に行ってみたいというので2人は行って、また前と同じ美味しいものをいただいた。男が帰り際に、こんな美味しいものはどうしたら手に入るのかと聞くと、船の人は、帰り道で娘を殺せといった。男は帰り道で娘を殺して埋めた。家に着くと、妻が、娘はどこかと激しく聞いた。仕方なく娘を埋めた所に行ってみると、そこにはあの美味しい穀物が実をつけて生えていた。そうして、フローレスには米がもたらされた。
 この話はフローレスの話ですが、この辺りよりさらに東にいくと、生え出る作物がイモになったり、ココヤシになったりします。どうやらこの話、もともとは根栽栽培者達がもっていた話らしいのです。イモは、掘り起こしたものを食べて、食べかすを土中に埋めておくと再生して、また立派なイモになります。こういう栄養成長をする根栽と日頃接していると、この死体化生という考え方は自然に出てくるような気が私にはするのです。
 ともあれ、南の海の世界を中心に、作物は海からという話と、もう一つの系統として死体から出てきたという話が広く分布しているのです。そして、それは大陸に広がる天からという考え方とは見事な対照をなすのです。

 

図22 薩摩半島西南端にあるニニギノミコトの宮跡 (嶋田奈穂子撮影)
  ■日向神話
 日向神話は天孫降臨から神武東征までの話を中心としたもので、日本の建国神話といってよいかと思います。これが私には強く海に結びついているように見えるのです。梅原猛『天皇の〝ふるさと〟日向をゆく』(新潮社、2000年)を下敷きにして、この話をなぞってみたいと思います。
 まず、天から降りてこられたニニギノミコトに関しては、二つのことが問題になっています。第一は、天下られたのは高千穂ですが、それは宮崎県の高千穂なのか、それとも鹿児島県の霧島山の高千穂なのかという問題です。
第二はニニギノミコトはオオヤマツミノカミの娘のコノハナサクヤヒメに笠狭というところで出会って結婚しているのですが、その笠狭とはどこなのかという問題です。薩摩半島に笠沙町というのがあるのですが、それなのだろうか。それとも宮崎県の高千穂町の近くに別の笠沙があったのだろうか、ということです。薩摩半島の笠沙町の方には古くからの伝承があって、ニニギノミコトの宮跡というのが県指定文化財にされています。現場は東シナ海に面した急崖上にある常緑の森で、その中に大きな岩が転がっています。それが当時の居住址だとされているのです(図22)。
 梅原は高千穂も笠沙もどちらと断定はしていないのですが、よく読んでみると、どうも天孫は薩摩半島の笠沙に到着して、そこから宮崎の高千穂に移って行った、と考えているようです。いくら天孫といっても天から降ってくるわけにはいかないから、海からやってきたのだ、多分、韓半島から薩摩半島の笠沙にやって来たのだ、と考えているようです。
 ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの間にはホデリノミコト(海幸彦)とホスセリノミコト、それにヒコホホデノミコト(山幸彦)の3人の子供が出来ます。このうちの海幸彦と山幸彦が例の釣針をめぐって争いをおこし、弟の山幸彦が勝って、ニニギノミコトを継いで第2代の王になります。山幸彦が釣針を得て海から帰ってきた所が、今の青島神社だとされています。日南海岸の北端に近い所です。山幸彦は釣針を探して海に行った時、ワタツミノカミの娘のトヨタマヒメと結婚し、2人の間にウガヤフキアエズノミコトが生まれます。そして、これが第三の王になります。
 ウガヤフキアエズノミコトは叔母のタマヨリヒメに育てられます。トヨタマヒメはウガヤフキアエズを生む時、元のワニの姿になったのですが、それを夫に見られて海に帰ってしまったからです。帰ってしまったヒメは妹のタマヨリヒメを養母としてつけたのです。しかし、ウガヤフキアエズノミコトは長ずると、このタマヨリヒメと夫婦になります。そして、4人の男の子を生みます。この4人が東征に出ます。日向王家の東征です。この東征には戦などあるのですが、最後に生き残るのが末弟のカムヤマトイワレヒコノミコトです。そしてこれが神武天皇になるのです。
 この話を振り返ってみると、ここには海民の影が至る所にあります。外から来たニニギノミコトは海民世界に入り込んだような格好です。神武天皇の母は海民です。祖母も海民です。曾祖母のコノハナサクヤヒメも多分海の民です。
 地理的に見る時、宮崎から鹿児島にかけては日本の中でも最も直接的に黒潮に洗われる所です。ここは先に描写した熊野灘よりもある意味ではもっと典型的な黒潮世界です。火山と森と海の世界といってもよい所です。そういう所だから、北九州とは違って熊襲や隼人の居住地として特異な世界を作っていたのです。こういう世界を主舞台にして、天皇家が出てきたというのは、大変面白いことだと思います。
 梅原猛は、ニニギは韓半島からやってきた、としていますが、私はひょっとしたらもっと南からだったのかもしれないとも思っています。種子島南端の広田遺跡などを思うと、そんな可能性だって否定できないという気がするのです。広田遺跡からは膨大な数の貝符が出ています。その中には日本最古の漢字「山」を刻んだものがあって、それは三国時代の書体だともいわれています。その頃には江南と日本の間にはさかんな交渉があって、こういうことが起こったのだ、というのです。
 ひょっとすると、日向王朝の王たちは、金属器、貝製品、仙薬などを扱う海商だったのかも知れません。広く東シナ海を渡り歩き、九州では島原湾と日向灘を結ぶ緑川・五ヶ瀬川ルートの分水点である高千穂町に内陸拠点を置いていたのかもしれません。こういう海と森を結ぶ商人であったからこそ、オオヤマツミノカミ(森の民)、ワタツミノカミ(海の民)と極めて密な連繋をしていたのでしょう。そして、このマリタイム・トレーダーはやがて瀬戸内から紀伊半島にネットワークを広げていくのです。
 先史時代の日本にはこういう人達がたくさんいたように思います。後に熊襲・隼人といわれた人達もその一部はこういう生活をしていたのではないでしょうか。そういう中から神武天皇が生き残って大きな勢力になった。そんなふうに私は空想しているのです。

■異人王
 遠来の異人が土地の王になるという話は東南アジアには極めて普遍的にあることなのです。例えば、カンボジアの建国神話は次のようなものです。混滇というインド人がやって来て、土地の娘の柳葉と結婚し、王になった。カンボジアの王家はここから始まるというのです。また、マレーに広くあるのはイスカンダール伝説です。ある夜、山の中腹が輝いて見えた。翌朝、村人がそこに行ってみると、貴公子が立っていて、我はイスカンダール(アレキサンダー大王)の子孫だ、といった。それで、その貴公子を連れて帰って王にした。マレーに多くある王家は、皆この王から分かれていくのだ、というのです。
 島々にはこういう異人の到来というのが実際にあったのでしょう。大陸の文明圏から商人や亡命者がやって来て、そこの王になったのでしょう。
 天孫降臨神話というのは、こういう異人の到来を大陸(天孫系)風に表現して作られたものなのでしょう。このようにして、海の民と陸の民の結合で、しかも人数としては海の民の方が多いものだから、作物起源だの土地の出現だの一般の生活だのという形而下的な話になると、今度は在地の海民の話が多くなってしまったのでしょう。
 異人王を受け入れるというこれらの神話の中に、私は、海民たちの控えめで、己を小さくする性癖をみます。自分達はたいした存在ではない、外の世界には自分達よりずっと偉大な人がいるのだから、その人を受け入れよう、とする態度です。一般にこれはマレビト信仰と呼ばれています。余談になりますが、マダガスカルで私は、人々が、侵入してきたフランス人を歓迎したという話を聞いたことがあります。侵略者として入ってきたフランス人はマレビトとして歓迎されたというのです。マダガスカルはアフリカのすぐ東にあるのですが、実はそこまでマレー世界は広がっていて、マレー人が住んでいるのです。日本語の極めてよく出来るマダガスカルの友人ラクトマララ氏から「マレビト」という言葉を聞いてびっくりしたことがあります。
 ずっと西のマダガスカルまで含めて、海の世界は総じて豊かで寛容な培地のような所なのではないでしょうか。そこ自体には強烈な自己主張はないけれども、到来したものを受け入れて、それを大きく育てていく、そういう力を持った所、そんな所のように私には思えるのです。この母のような包容力のある世界が、環太平洋にはずっと広がっている。そして、日本列島はその一部をなしている。そのように思うのです。日本の神話の多くが環太平洋的な広がりをもっている。そして日本の建国神話そのものが東南アジアの国々などと同じものを持っている。こういうことを考える時、日本の海洋的性格、特に南の海に通ずるものを強く感じざるを得ないのです。

〈北の海〉
 ここまでは黒潮系の話ばかりをしてきましたので、少し誤解を招いているかもしれません。実は日本には北の海というべきものもあるのです。そのことを最後に少し付け加えておきたいと思います。
 十数年前の冬、私は紋別の友人を訪ねたことがあります。その時の見聞を記して、ここが黒潮系の海岸とどんなに違うかをお伝えしたいと思います。その時、私はオホーツク海沿いに歩きました。遠浅を巻き上げてくる褐色の波がそこを荒々しく洗っていました。例年ならもう流氷の来ている時期だというのですが、その時には見えませんでした。まわりは一面の雪の原です。所々にモミらしい木が立っており、ミズナラの茂みがありました。だけど、樹木は少なく、むしろ目に付いたのは点在しているサイロでした。この丘陵地は牛飼育を中心にしている所なのです。
 友人は牛を野放しにしていました。普通の人がやる舎飼いとは違うのです。冬でも放牧です。それでも牛は雪を掻き分けてクマザサを食べて生きる、と言っていました。彼の話はその一風変わった牛の放牧と、土地の人が行う漁業の話ばかりでした。知床半島ではサケの定置網を破るトドを毎年150頭も撃ち殺すのだ、そのトドの刺身を食わせる店もあるなどという話も聞きました。流氷の来るオホーツク海岸はさすがに違うのだな、という印象を強く受けたものです。
 紋別から、網走のモヨロ遺跡に行きました。網走川河口の砂州の上にある貝塚遺跡です。いくつもの文化層が重なる複合遺跡なのですが、その中で8世紀頃から13世紀頃のものだといわれるオホーツク文化が面白いというので、それを見に行ったのです。地層断面が展示してあって、貝層の間に熊の骨の集積したところ、鹿や海獣、鳥の骨の集積層などがありました。セイウチの骨製の女性像というのもありました。とにかく、私がそれまでに内地で見てきたものと全く違うのです。このモヨロ遺跡のことを、藤本強「オホーツク海沿岸の文化」(網野善彦ら編『日本海と北国文化(海と列島文化1)』小学館、1990 所収)によって少し紹介してみましょう。
 家ですが、これは深さ1.5メートルぐらいの竪穴式です。中央に石で囲まれた炉がありました。炉の周りだけは粘土貼りの床にしています。ここが共同の場のようです。その周りが数十センチメートルほど高く、ベンチ状になっています。ここは板張りで、各家族の占用の場であったようです。普通の入口が見当たらないので、屋根から出入りしたのではないかといわれています。屋根に1メートル角ぐらいの穴を開けて、そこから出入りするのです。こうなると、アムールやサハリンのニブフ、アラスカのエスキモーのものと非常によく似た形のものになります。
 部屋は炉を中心にした一室だけなのですが、場所ごとに意味づけがしてあったとされています。一隅には熊の頭骨を集積した所があり、ここは祭壇であったらしいのです。さらに男の席と女の席が決められていたらしいのです。前者からは狩猟具などが多く出、後者からは調理具などが多く出るというのです。これらの室内の使い分けもニブフなどに共通するものが多く見られるのです。
 以上がオホーツク海沿岸の旅行で見聞きしたことです。さすがに雪野原が広がり、流氷が見られる所は違います。南方だとマグロやカツオが出てくるところに、トドなどという海獣の話が出てきます。北の海の文化なのです。しかも、この北の海の文化は考古時代の昔からあったようです。屋根から出入りする深い竪穴の家に人々は住んでいる。その住み方はニブフなどと全く同じである。ニブフと同じであるということはエスキモーなどとも同じということです。
 考えてみればこれは当然のことなのです。オホーツク海までは北から寒流が入ってきます。ここはベーリング海・北極海に続く北の海なのです。長い日本列島はその大部分が黒潮帯なのですが、北の一部には北極に続く海の世界があるのです。日本はこういう意味では南の海と北の海をつなぐ接点にあるということになります。

第4章 対岸の中華世界

 中国大陸には今まで見てきたアラスカや東南アジアや日本とは全く違った世界が広がっています。広大な農地が開け、人がいっぱいいて、中華思想という大伝統がデンと腰を据えています。先に述べた三つの地域とどう違うのか、どうしてそうなったのかを考えてみたいと思います。

[1]中国への旅ふたつ

 私は中国へは数回行っておりますが、そのうちの二つの旅のことを報告して、中国のことを考えてみたいと思います。

〈《中国》を求めての旅〉
 1990年と91年の2回に分けて、研究所の同僚と中国に行きました。この旅では相当広い範囲を歩きました。上海から出発して河南省を通り、西安に行き、さらに新疆の砂漠に行きました。南の方では同じ上海から広東、そして貴州から雲南にまで行きました。中国の半分ぐらいは回ったのではないでしょうか。
 この旅に出発する前、私はひとつの問題意識を抱えていました。当時、私は〈世界単位〉という概念に熱中していました。この概念はその後、もう少し形を整えていくのですが、当時はまだ稚拙なものでした。私は特定の生態の上には特定の生業が出現し、そこにはそれに応じた特定の社会、すなわち〈世界単位〉ができると考えていました。生態以外のことはあまり考えていませんでした。いわば、環境決定論だったのです。
 そんな状態の私が悩んでいたことはこんなことでした。黄土台地には黄土を耕す畑作民の世界がある。長江流域には水稲耕作民がいる。内蒙古に行けば草原の遊牧民、新疆の砂漠へ行けばオアシスの民、貴州や雲南へ行けば森が広がり焼畑民がいる。それぞれ違った生態があり、違った生業をもった人たちがいる。これらの世界をみな一つずつ〈世界単位〉にしていいのだろうか、ということでした。当時でも私は〈世界単位〉は現代社会の全体を説明しうる地理的範囲にしたいと思っていたものですから、もうひとつ、これでよしという感じがしなかったのです。こんなに別々の世界に分離して考えていたのでは「中国」というものは出てこないではないか、これが悩みでした。
 中国に着くと、すぐに私はこの悩みをカウンターパートになってくれた中国人の友人に話しました。するとその人はいとも簡単に答えました。〝中国はあります。それは儒教があって天子がいるからです。毛沢東は天子です〟。そう答えました。私は目から鱗が落ちる気がいたしました。そうだ、儒教だ。思想なんだ。生態ではないのだ。この旅行の目的は、だからもうこの時点で果たせていて、長途の移動をする必要はなかったのですが、私は予定通り先にいった広い範囲を巡りました。
 この旅行の結果得た中国のイメージは図23に示したようなものです。中央には長安があって、約1000年間、中国の中核となっていました。その後は中核が北京に移って現在に到っている。長安や北京という中核は四つの生態区の接点にあって、東西南北にいつでも軍隊を派遣できる戦略的な拠点であると同時に、政治と経済の中心になっている。さらに儒教という強力な思想を四周に発散している。そうした構造をもっている世界、それが中国だ。そんなふうに考えるようになったのです。

 ちなみに、その時、カウンターパート君は次のように付け加えました。儒教というけれど、一番大切なのは「仁」です。仁は愛のことですが、同時にこれは、天子にとっては極めて都合のよい人民統治のための武器です。「仁」は、天子たる者はできるだけ多くの人を愛さねばならないと教えています。多数の人を愛するためには少数を切り捨て、あるいは殺すことをも良しとしています。一方、中国は農民の国です。農民が90パーセント以上を占めています。武力のない農民を助けるために、武力をもつ草原の遊牧民や財力のあるオアシスの商人をやっつけることは「仁」なのです。これは、天子にとっては潜在的な敵を倒すことにも通じます。「仁」の論理は統治者にとっては実に都合のいい論理なのです。カウンターパートの言ったこの考えは正しいことだと、今も私は思っています。
 
図23 中華世界の政治生態構造(高谷好一 2001 『新編・「世界単位」から世界を見る』 京都大学学術出版会 p335 より)

〈長江文明の検証〉
 梅原猛さんや安田喜憲さんが長江文明というのを提唱しています。長江流域には稲作を中心にした文明が極めて古くからある。それはキビ、アワを中心とした黄河文明とは全く別のもので、発生の時代は黄河文明よりは古い、というものです。
 私は稲作の起源には昔から興味をもっていました。また、最近、自分の住む守山市に下之郷遺跡という弥生時代の環濠遺跡が出て、一層興味を深めていたのです。環濠集落の中には大きな高床建物が出たりして、学会でも問題にされている所です。そんなことで、稲作と環濠のルーツ探しをしようということで、長江流域に出かけました。しかし、結果は別の方向にいってしまいました。中華系技術の拡大の巨大さを見せつけられるということになったのです。
 この旅行で一番面白かったのは陰湘城遺跡でした。これは荊州市の北西30キロメートルほどの所にあります。長江沿いの平坦な水田地帯にあり、魚池がやたらに多い所です。この遺跡自体も今はいくつかの細長い池に囲まれていて、遺跡というよりも池に囲まれた小集落といった感じです。池の近くだけが少し高くなっていて、そこにはワタとサツマイモを植えていました。あとは全面、水田と池です。村を歩くと水牛がいて、多くの犬に吠えられました。
 遺跡はすでに調査済みで、荊州博物館には遺構の復形が示されていました。諸元も示されていて、東西580メートル、南北350メートル、城垣は頂寛10〜25メートル、底寛46メートル、高さ7メートル、環濠は幅45メートル、とありました。城垣建築は屈家岺文化時のもの、城内には房子、灰坑、墓葬と窑がある、とありました。屈家岺文化というのは紀元前3000〜2600年だとされていました。
 
図24 「木骨泥墻」の壁基部。湖北省北端の枣陽市雕龍碑新石器部落遺跡展示場にて(嶋田奈穂子撮影)
 ここで房子とされているものが大変面白いものでした。中国でいう「木骨泥墻」、いわゆる大壁造りです。平土間で土壁の家なのです。土を突き固めて床にし、壁には数十センチメートル間隔に木柱を立て、木舞ふうに横桟を渡してそれに泥を塗っていました。そして、床に薪を積んで燃やしていますから、半分煉瓦造りのような家です。これは中原に起源をもつものです(図24)。
 実のところをいうと、私は陰湘城の環濠の中には高床の家があるものとばかり思っていました。長江中流域だとその生態条件からすると、湿地に高床の家を建て、稲を作るものとばかり思っていたのです。それが現実には高床建物ではなく、平土間になっている。無理な建て方をしているな、というのが率直な印象でした。長江流域に平土間のような自然克服型の建物は、いつごろ、どうして入ってきたのか、逆に言えば高床建物はいつまでどこで残っていたのか、これが私の興味の焦点になりました。私はいくつかの遺跡を訪ねて回りました。
 高床建物の極めて見事なものを見たのは寧波の近くにある河姆渡遺跡の第3、第4層(前5000年〜4000年)でした。床の高さは1メートル程で東南アジアに現存する普通の高床建物に比べるとやや低いのです。しかし、それでも完全な高床建物です。ロングハウス風の建物がいくつも復元してありました。長さは、多くのものは20メートルを越していました(図25)。
 河姆渡遺跡のように柱そのものが残っているわけではないのですが、柱穴の存在から高床建物とされているものが八十垱遺跡にあります。陰湘城の対岸、長江中流域の南岸にあるのです。
 
図25 浙江省河姆渡遺跡博物館に展示されている高床建物支柱群(嶋田奈穂子撮影)
これに関しては〝大小柱洞600余个〟、〝干欄式〟の〝高架倉房〟(張弛、2003『長江中下游地区史前聚落研究』文物出版、15頁)という説明があります。ここには小さな環濠と土手があって、時代は前5500年頃とされています。
 私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡がやはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。
 右の情報を横並べにしてみると、次のようになります。
  ①河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
     ロングハウス式高床建物
  ②屈家岺期(前3000〜前2600年)
     木骨泥墻・環濠村
  ③石家河期(前2600〜前2000年)
     木骨泥墻・環濠都市
 ちなみに付け加えますと、屈家岺期に入ると、人口はそれまでの時代に比べて4倍から5倍に増大するようです。水田面積が激増し、環濠集落がいたるところに生まれるのです。だが、石家河期に入ると、こうした環濠集落の多くは消え、代わって石家河遺跡のような大きな環濠集落、都市とでもいわれるものが現れます。しかし、この石家河遺跡も前2000年ごろを境に、突如、潰減的に減少し、次の商代(前2000〜前1100年)に入っていく、といいます。商代はいわゆる青銅器時代です。
 こうして見てくると、ここには新しい文化の到来がはっきりと読み取れます。それは、まず第一は高床から平土間への変化、第二は石器から青銅器への変化です。高床から平土間への変化は、おそらく森林の消滅と関係しているのでしょう。水田が拡大すると森林が消え、材木が手に入りにくくなり、泥の家になったのでしょう。これはどうやら地元稲作民自身が招来した変化ようです。次の変化、石器から青銅器への変化、これは中原の人たちの侵入によって引き起こされたものらしいです。
 長江中下流域にいて、この水田の拡大から中原文化による征服までを経験したのは、いわゆる三苗のようです。『屈家岺文化』(張緒球、2004 文物出版社 230〜233頁)にはこんなことが書かれています。屈家岺期には、三苗は長江中流域はもちろんのこと、漢水中流部にもいた。石家河期にはずいぶん北に拡大し、丹江の辺りまでいた。湖北省最北端です。そこで中原勢力との間に戦が起こった。堯は三苗討伐に出たが、勝てなかった。舜は戦争に出たが、かえって戦死した。禹になってやっと三苗に勝った。この禹の時期が石家河の晩期にあたる。と、いうのです。
 ここまでのところだとまだ中華文明というものは出来ていません。だが、森と湿地の多かった長江流域に水田が拡散し、やがて中原文化が侵入してきたという事実を知ったことは、私にとっては意義のあることでした。

[2]中華世界の出現と定着

〈中華世界とは〉
 中華世界とは何なのでしょうか。それは、自分達は世界で一番素晴らしい文明を持っていて、世界の中心を作っている、と考えている人たちが住んでいるところだと思います。これは言い直せば華夷思想といってもよいでしょう。自分達は華だが、四周は夷狄だ、という考え方です。漢代に出てくるこの考え方は、東には東夷がいる。刺青をし、褌をつけ、裸足で水に潜って魚を捕っている。南には南蛮がいる。東夷と同じような生活だ。北には北狄がいる。羽の衣をつけ、テントに住んでさまよっている。西には西戒がいる。粒食を知らない。中央にいる自分達だけは、ちゃんとした衣服を身につけ、まともな食事をし、文字を持ち、礼節をわきまえて都市生活をしている。これが中華思想の根幹です。
 この中華思想は漢代に出現し、定着したようです。先の生態区分図を用いて言うと、東の海の民、南の森の民、北の草原の民、西のオアシスの民を平定した秦の始皇帝が咸陽に都を作った。それを継いだ漢の天子達もきらびやかな都を長安に作った。そしてこの世は天子を中心にして秩序が保たれてこそ、万民が幸福に暮せるのだという世界秩序理論を確立した。これが強力な軍備とあいまって、中華世界を長期にわたって存続させてきたのだ。そう私は考えるのです。

〈中華世界の出現〉
 先にみた陰湘城から中華世界まではだいぶ距離があります。石家河には中原の文化が入ってくるのですが、これとてまだ中華の時代とは距離があります。この距離はどう埋められたのでしょうか。
 考古学者の蘇秉琦は古文化、古城、古国、方国、帝国というようなことをいっています。政治、経済的なまとまりがだんだん大きくなっていくことを考えているのです。極めて小さい集落、例えば数戸のまとまりでも文化をもっています。それが、防衛などを考えて濠や土手で守りを固めたりするようになると、これを古城とするようです。陰湘古城はこの段階に当るようです。こういう古城がいくつか政治的にまとめられ、古国が作られる。石家河などはこの段階に入れられているようです。巨大環濠をもった石家河城はその周辺にいくつかの小さい環濠集落や、環濠のない集落を従えていました。たぶんこの頃までは、その土地の自然環境に縛られたその土地固有の生業・生活文化区を作っていたのでしょう。そして、この次の段階のものとして、蘇は「考古学文化区」を設定しています。そしてその代表的なものとして、六つのものを考えています。それは燕山周辺のもの、山東周辺のもの、太湖周辺のもの、鄱陽湖から贛江をつたい珠江に至るもの、洞庭湖から四川に至る長江中流域のもの、関中から中原にかけてのものの六つです。
 こうした六つの考古学文化区の中から、夏や商や周など、後の戦国時代の方国に通ずるものが出てくるのです。これらこそ生態の枠をこえて広がっていく、いわゆる文明型の国家なのです。ところで、蘇はこの文明型の国家すなわち方国が最初に生まれたのは2ヵ所からだとしています。燕山周辺のいわゆる紅山文化区からと、太湖周辺の良渚文化区からです。関中や中原からではないのです。
 文明はすでに紅山、良渚の時代には生まれていた。前3000年紀中ごろです。それらがお互いに衝突と混淆を繰り返し、秦の時代になってやっと統一されて帝国になり、中華世界の創出を行った、というのです。先に私がその探索を求めて出かけた「長江文明」というのは、八十垱(遺跡)古城時代から良渚文明に至る時代のものです。水稲文化の創始者として生まれ、その後ずっと続いて中国最初の文明型方国を作るに至った、この一連の文化だったと考えてよさそうです。

〈超生態・超民族の空間〉
 中華世界の特性として二つのことを指摘しておきたいと思います。それは超生態と超民族ということです。
 超生態についてはすでに述べました。中華世界は生態の違いを乗り越えて広がっているということです。もともとは関中の辺りから広がっていったのでしょうが、後には黄土地帯を中心に北の草原にも、西のオアシス帯にも、南の森林帯にも、東の海岸部にも広がっていきました。森林が伐り倒されて水田地帯に変えられるなどというのは、その典型です。草地の農地化も行われました。
 もう一つの超民族というのはこういうことです。中華世界は天子を受け入れ、それを頂点にし、儒教的秩序にしたがって生きている人たちの世界です。天子と礼、この二つさえ受け入れれば、どんな民族でも中華世界の一員になれます。決して漢族だけしか中華世界のメンバーになれないわけではありません。生まれがモンゴル族であろうが、苗族であろうが、儒教の教えに則って生きていけばもう中華世界の一員です。もっと重要なことは、天子だって漢族出身である必要はないのです。儒教的やり方で国を治めるなら、その人はどの民族出身でも構わないわけです。現に、清朝の天子は満族でした。
 中華世界はつまるところ、儒教という大イデオロギーで縛り上げられた巨大な人間集団なのです。
 何故、こんなことが出来たのか。耕作可能な土地が広大に広がっていたからだと、私は思います。その主体は黄土大地と長江沿いの平坦地です。この平坦地は見渡す限りの農地で覆いつくされることになりました。そして人間で満ち溢れることになりました。こうなると、ここで最も必要なことは、この膨大な人口を治めていく方策の発見ということになります。争いばかりが起こっていたのでは、この大集団は自滅することになります。誰か一人が強大な武力を持ち、それで集団を押さえつけるという方法が、一つにはありうるのだと思います。秦始皇の兵馬俑を見ると、なるほどこれだけの武力があれば烏合の大集団を押さえつけることが可能だと思わせられます。
 だが、武力による統治は次から次へ現れる競争相手の出現で、結局は最終的な解決にはならないでしょう。最終的な解決方法は、結局は秩序確保の思想とその方策の提示でしかありえないのでしょう。こうすれば世界の秩序が保たれ、皆が平和に暮すことが出来る、とその方法を筋道を立てて言いえた人が大群衆を治めることができるということになるのでしょう。儒教は、そういう状況の中で生まれ出てきたと、私は考えるのです。
 森、海の世界では暗がりがあり、カミガミがいて、霊と魂に満ちていた。そして人々はこうしたものを恐れて生活していた。しかし、この広大な野の世界は違う。人々なによりも人間を恐れている。集団が生き続けていくためには、いかにして人間同士の争いをなくしていくのか、暴力を排除していくのか、それが最大の関心事になる。あるいはまた、集団として生き延びていくには、どのようにしてシステムを整えていくのか、そのことを常に考えねばならないと所、そのような所と、私には見えて仕方がないのです。
 中国では農作物の出来不出来のような問題さえ、システムとして考えているといいます。例えば、『魏志東夷伝』の夫余にはこんなふうに書いています。「水旱不調、五穀不熟、輒帰咎於王、或言当易、或言当殺」。天候が悪く、不作になるのは天子のやり方が悪いからだ、そんな王は取り替えてしまうか、殺したほうが良い、というのです。集団の頂点にいる天子が天のお目にかなわないような行いをしているから集団が罰を受けている。この正しくない状態から抜け出すためには、王を変えるしかない、社会システムを変えようというのです。東南アジアだと決してこの様にはいいません。夫婦が喧嘩したから精霊がその家に愛想をつかせて逃げたのだ。などというのです。中国と東南アジアの間には大きな差があります。
 巨大なイデオロギーが作られており、それによって社会がしっかりと縛られている所、それが中華世界だ、と私は思うのです。

第5章 森・海文明圏の提案

[1]アラスカの声

 アラスカの旅の最後の日に、私はアンカレジ歴史・芸術博物館に行きました。大変立派な博物館で、アラスカの歴史が分かるように展示がしてあり、先住民の製作した絵や彫刻がぎっしり並んでいました。1日では見切れなくて、2日かけてじっくり見ました。見終わってそこを出ようとした時、小さな机があって、そこにホッチキス止めのA4の紙が積み上げてあるのを見つけました。展示の豪華さに比べると、そっけないものでした。それを手にとって冒頭の部分に目をやってハッとしました。そこには次のようなことが書いてあったのです。

"The land is the Spirit of the people"
Keynote Speech by Willie Hensley
Alaska Federation of Natives Convention
Anchorage, Alaska-October 23, 1980

 1980年に行われたウィリー・ヘンスレイの講演の一部です。

Why the Land?
Basically, we did not fight for the land because it represented capital, or because it represented money, or because it represented business opportunities. We fought for the land because it represents the spirit of our people. It represents your tribes and it represents your ancestors and it represents that intimate knowledge of the land that your people grew up on for ten thousand years. And when we fought for the land, we really were fighting for survival - not economic survival, or political survival, but survival as a people with an identity - people with a culture.
(何故、土地なのか?私達は、土地が資産になるからということで闘ったのではない。また、現金になるから、ビジネスチャンスを与えてくれるからということで闘ったのでもない。土地は私達の魂なのだ。だから闘っているのだ。私達民族そのものなのだ。私達の先祖なのだ。だから闘うのだ。私達が1万年以上の長きに渡って住み続け、築きあげた知恵そのものだ。だから闘っているのだ。私達が土地のために闘っているのは私達自身の生き残りのためだ。経済的な、あるいは政治的な意味での生き残りではない。そうではなくて主体性をもった人間、文化をもった人間として生き残るために闘い続けてきたのだ。)

 何日かかけてアラスカの森や氷河や海を見、町を見、いくつかの博物館を訪ねて、それはそれなりにずいぶん勉強になったのですが、最後の最後に、それも片隅に置かれていたこの短い文章に私はガツンとやられてしまったのです。はっきり言って、私がこの小さい本を書こうという気になったのは、この瞬間でした。
 私より一足先にこの地方を歩いた親友の古川久雄は、「ワンネス」と「所有権」こそは先住民の基本的な考え方で、彼らはそれを中心に今も生きている、というようなことを言っていました(古川久雄、1998、「すべてはひとつ—カナダ先住民の心」『人間文化4号、滋賀県立大学』)。 
「ワンネス」というのは〝他の生命を深く尊敬すること。生命と土地の霊性と聖性を信頼し、人間と環境が一体であると信ずることである〟(81頁)としています。先住民に言わせると、サケもトナカイも森も皆私達人間の仲間で、この土地の上に生きているものはみんなでひとつなのです。古川がワンネスと言っているのはこのことです。「所有権」というのは〝代々の首長がもつ領域で、且つ、その中の森林、土地そして海を管理する責任、彼の部族の成員の世話をする責任〟ということだ、といっています。所有権とは欧米風の権利ではなく、責任なのです。部族の全員が生きていけるようにする責任、先祖から受け継いできたものを、次代に引き渡していく責任なのです。
 ところで、実際はどうなのでしょうか。実際に起こったことは、第一章でも述べたようにそれとは全く違ったことでした。まず、ラッコやアザラシのような毛皮獣が捕り尽くされ、サケが乱獲され、鯨がほぼ全滅させられ、その後は森林が広大に伐り倒されました。先住民達はラッコやアザラシやサケや鯨や森といった仲間と住み続けてきたのです。それが白人達に乱獲され、全て域外に持ち出されて売られてしまいました。先住民達は文字通り、丸裸の状態にされたのです。そればかりか、その土地さえ取り上げられてしまったのです。
 こういうなかで、土地を返せの運動が起こっているのです。確かに、あまりにも無茶苦茶に資源が捕り尽くされ、勝手なやり方で土地が取り上げられています。常識で考えても、返してもらわねばならないのです。
 しかし、ここでもっと注意しておかねばならないことは、彼らがその返却を経済や政治に絡ませて言っているのではないということです。Willie Hensleyも「土地は我々の魂」だといっています。また、〝主体性を持った人間、文化を持った人間として生き残るため〟には土地が必要なのだと述べています。
ここで私はシアトルの酋長の詩を想い出します。「せせらぎや川を流れる輝かしい水は、ただの水ではなく、われわれの祖先の血だ。湖の水面に映るどんなぼんやりとした影も私の部族の出来事や思い出を語っているのだ。かすかな水の音は私の父の父の声なのだ。」(星野道夫 1996 『森と氷河と鯨』世界文化社 158頁)。
古川のいう「ワンネス」「所有権」ということを考え合わせる時、Hensleyが演説で主張していることの本当の意味が、極めてよく分かるのではないでしょうか。
 アラスカはすでに強烈な発信をしているのです。

[2]何故、森と海なのか

 何故、森と海なのか?それは森の人達の考え方と海の人達の考え方が、行き詰まりにきている現代文明を救う可能性を秘めていると考えるからです。
 先に私はアラスカは森の世界で、そこから出てくるものはワンネスの思想だと論じました。一方、東南アジアは海の世界でこの世界の最大の特徴は他形性だと論じました。このワンネスと他形性が地球を救う切り札になりうる、と私は考えるのです。
 現在、世界をリードしている欧米起源の現代文明のことを考えてみましょう。これは「たてまえ」と「強引さ」の文明だと私は考えています。欧米人たちは科学全能を打ち出したために、「見えないものは無い」という形式論を押し通すことになりました。科学ははっきりと目に見えて、計測しうるものだけしか相手にしません。見えないものは取り扱うことが出来ないのです。取り扱うことが出来ないという事実を〝存在しない〟ということにしてしまいました。カミや魂は見えないし、計測できない。だからそんなものは無い、としたのです。私が科学万能主義を「たてまえ」「強引」というのは、こういうことをとらまえてなのです。
 あるいは、こういうふうに言ってもよいかもしれません。科学は事象を細分します。細分して、その一片一片をいわゆる科学的手法で分析し、記述します。だが、細分した時の継ぎ目、あるいは間隙のことはもう取り上げません。間隙のことを調べる手法を持たないからです。こういうことだと全体像は出せません。
 いつか今西錦司がこんなことをいっていました。トンボが秋風に乗ってやってきて、一枚のススキの葉の上にとまった。何とも気持ち良さそうに目を上下左右に動かしている。トンボはどんな気持ちで、何を考え葉の上で揺れているのだろう。かれはその生きているトンボを描き出そうとするのです。だが、彼がそれまで教わってきた生物学の手法ではどうしても出来ない。生物学の科学的手法だと、そのトンボを捕らえ、羽の長さや幅を測り、色を記録します。目玉も胴も、足も同じように調べる。そして、ピンで標本箱の中に貼り付ける。こんなことで何が分かるというのだ。秋風に吹かれながら気持ち良さそうに生きているトンボ、その生きた姿を考えることこそ、自分がやりたいと思うことだが、それは生物学の方法では出来ない。と、いうのです。
 考えてみると、森の人達は、今西がやりたいとしていたことを巧まずして昔からやっています。彼らは普通には見えないカミガミや魂や死のことをちゃんと視野に入れて生活している。そうしなければ落ち着かないのです。森の暗闇にはカミガミがいるらしい、そう思ってしまうともうそのことに目をつむってしまうことは出来ない。魂にしても同じです。レーダーにも赤外線写真にもかからないのだから無いのだ、などといって終わりにしておくことは出来ない。ここの所が大きな違いなのです。森の人達は全部を考えようとしている。見えないけれどもあるに違いないものも含めて全体を考えようとしている。それらの全てを含めて彼らは「ひとつ」というのです。そういう意味では科学的手法で捉えられたものは「半分」にしか過ぎない。「半分」を全体と言いくるめるところに、私は虚偽性を感ずるのです。森の文明は、こういう意味では「全体」の文明、「本当の」文明であると私は考えます。今、世界に求められているのは、この見方なのです。
 他形性についてはすでに先章で論じたことですが、もう一度繰り返しましょう。他形性とは自形性に対立する概念です。これはもともとは岩石学の用語なのですが、文化の局面で読み変えると、こういうことです。俺が、俺がといって自己主張をするのは自形的です。一方、相手に合わせて柔軟に対応するのは他形的です。海の人達は総じて他形的です。港には肌の色、言語、宗教、習慣の違う、雑多な人達がやってきます。皆、交易にやってくるのです。港町の特徴の一つは、こういう多種多様な人達を受け入れ、共生させることです。ここでは、〝俺が、俺が〟は通らないのです。もしそんなことを言っていたら、誰も寄り付きません。やってくる人に対して、柔軟に対応し、気楽にいてもらうようにする。これが他形型社会の一大特徴です。
 この他形性の態度こそ、今の地球世界に求められている今ひとつの点ではないでしょうか。他形性を考える時、アメリカの態度などは最悪のものと言わねばなりません。彼らはいつも、アメリカは正しいと強引に言い張ります。そして自分にとって具合の悪いものを悪の権化のように罵ります。この態度からは本当の解決は得られません。相手を叩き潰してしまうか、さもなくば永遠の戦争を続けなければなりません。現代の地球世界で横行しているこの「ごりおし」、「自形型」の行動はどうしても止めてもらわねばならないのです。こんな時、大きく浮かび上がってくるのが「他形性」なのです。
 「たてまえ」を捨てて「本音」でいく。「半分」しか見ないのではなくて「全体」を見る。「ごりおし」をしないで「弾力的」「他形的」にいく。これこそ現代が求めているものではないでしょうか。

[3]環太平洋森・海文明圏の構想

 
図26 環太平洋森・海文化圏
   せっかくアラスカからの発信があるのだから、これを受けて新しい文明圏を構想してみたらどうだろう。環太平洋森・海文明圏とでも呼ぶべきものを構想してみたらどうだろうか。きっと地球世界に新しい潮流が流れ出すに違いない。それがこの本で言っておきたい最も大事なことです(図26)。
 ところでアラスカ、日本、東南アジアを結んでこういうものを考えることが妥当なことなのか否か、このことをもう一度検討しておきたいと思います。
 二つの面から考えてみたいと思います。まず第一はこの三つの地域はお互いを繋ぎ止めあう共通基盤をもっているのかどうか、ということです。この点に関しては、私は持っている、と考えます。森性と海性が共通項です。
 アラスカは、繰り返し述べてきたように、森性そのものを具現している世界です。ワンネスという言葉で彼ら自身がそれを現しています。海性も持っています。彼らがつい百数十年前までは海を主舞台とするハンターであったという事実は、それ自体が海性です。ただ、アラスカの人達は東南アジアの人達のように、港の鎖を作って盛んに貿易し、インターナショナルな国際商業圏を作るというようなことはしませんでした。人口が少なく、それに何よりもロシア人やアメリカ人という強力な侵入者に圧迫し続けられてきて、独自の芽が出せなかったからです。それにもかかわらず、逆境の中で域内交易を続けてきました。これこそ他形型の強靭な生き方そのものだ、と私は考えています。
 東南アジアには焼畑民の生活に典型的に現れているように、森が生き続けてきました。彼らは森のカミガミを信じ、草木虫魚と共に生きてきたのです。彼らが稲に対して持っている考え方は、アラスカの人達がクマやトナカイやアザラシやサケに対して抱いている気持ちと同じです。こうして、森性、ワンネスの考え方はここにもあります。しかし、東南アジアのもっと際立った特徴は、その他形性です。他形であったからこそ、多くの外国人と共生し、協調し、国際的社会を作ってきたのです。
 こうして見てみると、アラスカと東南アジアは驚くほどよく似ているのです。森性・海性を共有しているということです。そしてこのことは、片方に中国をおいてみると一層はっきりいたします。大陸の中国は大文明圏です。しっかりしたイデオロギーの世界なのです。自然を拒否し、人為を重んじます。とりわけ、中華思想というイデオロギーで自分の生き方をしっかりと決めてしまって、他との妥協などしようとしません。優れて自形的なのです。
 さて、次は日本です。日本は、この森・海に生きるアラスカと東南アジアの仲間に入りうる資格があるのか、さらに、入ったとしてそれらを繋ぎうる力を持っているのかどうかということです。この点に関しても、私は、大丈夫だ、日本はそれをやりうる資質を持っている、と考えています。
 まず、森性があるのかという点ですが、意外に濃厚に持っています。神のいます奥山はもちろんですが、里山でも人々はカミガミや草木と共生しています。滋賀県のような比較的開けた所でも、その里山の占める比率はずいぶん大きいことは先に見てきた通りです。そこには社や祠や塚や石碑、それに山の神などが本当に多くあります。もちろんそれらがまだ生きているのです
 次に海性ですが、これも日本には充分にあると思います。このことに関しては私達日本人の心の奥底には天神地母の考え方がしっかりと根付いているという事実をまず思い起こしてみるとよいのではないのでしょうか。ここでの地は単なる地面ということではありません。森と海のある私達のふるさとということです。もっと具体的にいうと、森で覆われた島々の散らばる海の世界です。そこに海を渡って天神がやって来て、私達の歴史が始まった、ということです。こういうことだからこそ、私達の神話の中にはあらゆる場面で海が出てくるのではないでしょうか。繰り返し述べてきたように、海民の歴史は異人の到来の歴史です。外来文化を他形的に取り入れ、それを自分のものにしてきました。私達日本人は、まず最初に天孫を受け入れたことでそれを始め、古代の律令制の導入、近世の銭文化の導入、そして近代の西欧諸文化の導入と繰り返しそれをやってきました。他形性というのは弱いがゆえに相手に合わせるということです。うまく対応して、最終的には自分の得になるようにする、ということです。日本は他形性の妙を実にうまく利用して、今に生き延びてきた、ということではないでしょか。海性を生かした優等生の一人ということが出来ると思います。
 最後に、それでは日本はアラスカ・東南アジアを繋ぐ役をやりうるのかということです。やりうるし、やるべきだと私は考えています。
 まず簡単な所から見てみます。地理的な位置です。南北に長い日本は両手を広げたような格好になっていて、片手でアラスカを、片手で東南アジアをつかまえています。すでに本文中でも少し触れたように、北海道、特にオホーツク海岸はアラスカ的環境なのです。トドを乗せてやってくる流氷はベーリング海のものですし、この地にある考古的文化財はアリュートやエスキモーにも通じるものです。こうして日本はすでにこの土地の北端にアラスカの仲間たちを抱えていたのだということになります。一方、南の方では琉球列島は極めて強く東南アジア的だといってもいいかと思います。地理的には日本列島はアラスカ、東南アジアを現に繋いでいる存在そのもの、といってもよいのでしょう。
 次に日本が持つ独自な資産のことを考えてみましょう。先に議論した平野とそこの地縁社会のことを考えてみたいのです。地縁社会そのものは稲作という特異な生業を軸にして日本が作り上げた特別なものです。これはこれで世界の宝として大事にすべきものだと思います。この独自性に加えて外来文明をも自分のものにしてきました。日本は独自性と外来諸文明を併せ持っているのです。日本の歴史を具体的に見てみると、このことはすぐ解るかと思います。日本の基底には倭文化とでもいうべきものがあります。先に見た森・海中心の原郷の文化です。それに中国の文明が入り、さらに近代ヨーロッパの文明が入ってきました。私達の体の中にはこの倭・中・欧がまだ共に生きています。私達の心は多分、三つの焦点のある変形楕円形のような格好をしているのです。中国などは中華思想というたった一つの中心がある円構造をなしているのでしょう。これに対して日本の場合は倭・中・欧の3焦点の、いかにも締りのない構造です。だから他国の人達からは、日本は独自性がない、中心がないなどと言われ、いささか見下しに近い態度をとられるのでしょう。
 しかし、本当に多焦点構造が悪いのでしょうか。これこそは多くの他形性社会が持たざるをえなかった構造だし、むしろそれを生かして独自のものを生み出せばよい。そのように私は考えるのです。それに第一、他形型社会のバッファー的働きがなければ、地球世界はパンクするのです。日本などは己が持っているチャネルを開いて、他の文明圏との対話が出来るのです。この点をこそ生かすべきではないでしょうか。
 アラスカ・東南アジア・日本を振り返ってみると、以上のようなところではないでしょうか。アラスカはワンネスをほぼ純粋培養的に堅持してきました。これは、今や間違いなく世界の宝です。東南アジアは森性を持ちながらより徹底的に海の他形性を追求し、独自の弾力的な社会を作っています。そして最近では、その生き方で世界秩序の一角を担うという状況ですらあります。ASEANがそれを雄弁に物語っています。こういう中で日本は基本は他形的でありながらその平野の民が得意とした蓄積の術を生かしてより膨らみのある社会を作っている。多様なもの、森性や自形性を合わせ持って重層的な社会を作っている。この重層的な日本ならアラスカ・東南アジアにも話が通じるし、大陸の国々にも話が通ずる。そのように考えるのです。
 世界は残念ながら、今までのところでは大きく二分されてきました。自形で突っ走ってき、これからも突っ走ろうとするところと、そうでないところの二つです。自形が強引に突っ走りすぎて、世界がパンクしそうな状況です。21世紀は他形性が出て来なければならないし、多分そうなるのでしょう。日本がもう一つの文明、森のワンネスと海の他形性を生かした文明をアラスカ・東南アジアの人達と手を組み合って育て上げられる日が来て欲しい。そんな気持ちでこのエッセーを書いた次第です。


©Yoshikazu Takaya, 2008
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